14   最後のキス 










「…鋼の?」



深夜の庭、動いた茂みの気配に思わず身構えたエドワードだったが、そこから現れたのは黒い髪に黒い瞳の見知った顔だった。いま一番見たくない顔がふいに現れ、思わず眉をひそめる。だがロイはそんなエドワードの心中を知る筈も無い。
「…鋼の。…君だったか…人影が見えたので…どうした、眠れないのか」
寝間着姿のロイはエドワードの横の草叢に、返事を待たずに静かに腰を下ろした。少年は嫌とも言えずに只、瞠目している。暫く沈黙が漂い、やがてなんとも間が抜けたタイミングで少年が口を開く。
「…ん、まぁ…アンタこそ眠れないんだろ」
なるべく目をあわせないようにして問いかける。
「ああ、そんなとこだ。夜の散歩さ」
と、ロイは返すが、エドワードはいきなり現れた男に動揺していた。何故この場に。
(…もしかしてずっと俺を見てたんだろうか)
もしやこの男に泣き顔を見られたのかと心配になり、慌てて話を逸らそうと思いつくまま訊ねる。
「えっと、な、なぁ、なんで俺なんかがここに招待されたの。すげぇお屋敷じゃん。あの将軍もすげえ人なんだろ」
「今日は君には退屈だったようだな。無理を言って悪かった。明日からはゆっくりさせてもらえばいい」
ロイは静かにそう答える。意外に優しげな返答に少年は却って困ってしまった。昼間のように馬鹿にされたらここぞとばかりに悪態をついてやれるのに。そしたら少しは苛立ちも収まるだろうから。なのに。ちいさなため息をそっとおとし、暫しの逡巡の後、もう今更仕方ないことだとエドワードは思い直すことにした。
「………いいよ。アンタには大人の付き合いってのがあるんだろからさ」
さぞかし盛大な文句が返ってくるだろうと思っていたのに、少年の大人びた言葉にロイは目を見張る。
「君がそんなことを言うとは思わなかった。…いや、君はそうだったな」
この少年は自分を見せているようで、実は無意識に相手に合わせているところがあるのだと男は思い出す。それとも元々そういう子どもだったのだろうか、彼は。 しかしこどもは俯いて何も言わない。二人の間には草叢で鳴く虫の声だけが響く。男は顔を傾けると少年の長い金髪に目を止めた。
「君が髪を下ろしているのは初めて見たか…随分長いな」
自分の髪に興味を持たれているとは思ってもみなかった。エドワードは草叢のうえで膝を抱えて体を揺すりながら、どう答えようかと迷った挙句外れた返事をする。
「あ、ああ、寝る前は三つ編み解いているから。邪魔だろ」
「だったら切らないのか」
「こ、これはこれでいいんだよ…」
男の穏やかな笑みを目端に捉えると、エドワードはそういいながら自分の長い髪を撫でる。
「…そういえばいつだったか、君の髪に手を伸ばしてえらく怒らせてしまったな。理由は良く分からないのだが、きっと私の配慮が足りなかったのだろう。すまなかった」
(大佐、覚えていたんだ)
かくいうエドワードも覚えていた。いや、正確には心に引っ掛けたままだった。
「弟も、アルフォンスもそういう髪だったのかな。いや、君たちは母親似なのかい」
エドワードの金髪を見ながらそう紡ぐ。男は初めて少年の家を訊ねた日のことを思い出す。見たものは、「あれ」と、明るいブルネットの髪色の母と彼らの写真ではなかっただろうか。
(さっき泣いていたのを何処からか見られてたのか?)
母親という言葉に、先程からの自分を見透かされた気がして、エドワードはロイの顔を盗み見るが、男には探る様子もいつもの皮肉っぽい表情も皆無だった。男はゆっくりとさらに言葉を続ける。
「だったら他人の私がいきなり髪に手を触れて良いものではなかったのだろう。すまない。つい…」
(なんかさっきから謝ってばっかじゃねぇかよ)
酷いことを言ったのは自分なのに男にばかり済まないと言わせてている。
「…違っ、あれは俺が悪かったから……ゴメン」
少年は俯きながら小さい声で呟く。
「しかし、そういう格好で居ると君は普通の少年だな…」
くす、と忍び笑いを落とす男の表情は元通りの皮肉混じりであった。途端に少年は頭にかっと血が上る。
「あ、あんたこそ、軍服じゃねぇの初めて見たぜ。それに今だって寝間着のまんまじゃねぇか。ふーん、寝間着着て寝るんだ?」
「…当たり前だろう。軍服を着て寝るのは戦場くらいだぞ…そう、戦場だ」
男の言葉が途切れ、黙って闇夜を見上げる同じ色の瞳は穏やかで、少年は途惑う。なんだ?急に黙っちまって…どうかしたのか?なんか俺、まずかったのか?
「…大佐、あの」
いったん言葉を飲み込み、思い切ったように口を開きかけた時、男が先に言葉を遮った。
「テロの件では協力感謝する。…さ、そろそろ部屋に戻らないと冷えてしまうぞ。裸足だろう」
それだけ言うと男は立ち上がり、少年の肩に自分のガウンをふわりと掛け、おやすみ、と戻っていった。
「…あ」
言いそびれた言葉を持て余すうちにやがて男の後姿が見えなくなり、エドワードは夜の庭に独り残された。




翌日。遅めの朝食の席にガラス越しに秋の柔らかな日差しが射していた。男は夫人と会話しながら食事を進めている。しかし、エドワードは案の定風邪を引いてしまっていた。少し熱っぽい気がする。昨夜は薄着でうろつき過ぎたのか。男が去ったあとも少年は暫く庭を彷徨っていたからだ。歩く足元から夜の冷気が上がってきたが、直ぐ部屋に戻る気がせず、小一時間かそこいら歩き回って、部屋に戻ってからもあまり寝ていないように思う。冷えと寝不足は風邪を引くには十分の条件といえた。 弟にバレると有無を言わさずベッドに押し込まれてしまうだろう。昨日に引き続き、今日も大人しくしているのは拷問に等しい。せめて本でも読めないかなぁ…。朝食の席でぼんやりとそんなことを考えていた矢先、夫妻が声をかけてきた。
「エドワード、アルフォンス、昨日はありがとう。後の滞在中は好きにすると良い」
「ええ、こんな可愛いお客さまを迎えることができて。ゆっくりしていってね」
エドワードには昨日は全く楽しく無かったのだが、この退役夫妻に嬉しそうに言われては不機嫌な顔も出来まい。 悪い人たちではないのだし、それにしばらくはここにいるのだから。昨夜とは違って家庭的な雰囲気。初対面の気さくさを思うに、これがこの家の元々の空気の気がする。それに昨夜だって大佐の服装の変わり様に戸惑っていたのかも知れない。と、思案した挙句、エドワードは思い切って口にしてみる。
「あの、図書室に入ってもいいですか。オレ、本を読みたいんですけど」
「おや、ロイの言っていたとおり本好きだな。もちろんそれは構わない。気に入る本があるといいのだが」



図書室は小さかったが、そこそこ数は揃っている。錬金術関係の本は見当たらないが、軍事的見解からの補給管理、気象観測についてなど、指揮官としての軍人らしい蔵書が多かった。軍事的見解とやらには興味はないが、それでも何もないよりマシだと思い、エドワードは適当に何冊かを選んで紐解く。

何時間たって、何冊目の、何の本だったのか、開いたページにふと目が止まった。古い書き込みがある。気象現象の覚書だろうか、データの脇に小さくびっしり書き込んであるその字には見覚えがあった。
(これは大佐の字だ)
気象現象と空気成分変化についての私見のようだ。エドワードでも無く解らないほどの高度な内容だ。ロイはここを使ったことがあるのだろうか。己の錬金術を軍事的見解とやらに照らし合わせでもしていたのか。そうなるとその用途はただひとつ。
(…ここでこんなものを見るとは思わなかった)
いけないものを見つけてしまった気がして、エドワードはその本を書架にそっと戻した。


目の前が急に明るくなった。いや、自分が目を開けたのか…何故かベッドに寝ている。 オレは図書室にいたはずなのに?そして傍らから弟とコンラッドが覗き込んでいる。
「図書室で動けなくなってたんだよ。熱っぽいの黙ってたね、兄さん!」
「エドワード、無理をしちゃいかんよ」
二人に怒られ、エドワードはマズったバレたかと身を縮める。本を読むなら退屈しないし体力も使わないと思ったのに。ところで誰がオレを見つけてここに運んだのだろう。どうもアルフォンスでは無さそうだし、どうか大佐ではありませんように、と祈る思いで訊ねてみる。
「ランドさん。たまたま見つけて運んできたんだよ」
(ランド?また世話になったんだ、オレって何て情けないんだろ)弱みを握られた気分になったエドワードは毛布に顔を半分埋める。こんちくしょう。
「あの、大佐は?」
「ロイならランドと支部に顔を出しに行ったが。ロイは明日にでもまた戻るそうだ」



夕食時、夫人はエドワードの部屋にテーブルをしつらえ、3人はテーブルで、エドワードはベッドで食事が取れる様にしてくれた。ね、これならベッドでも皆で喋りながら食べられるでしょ、と。
「あの、オレ、お世話になってるし、そんなことっ。感染るといけないしっ」
自分の不注意で風邪を引いたのにそんな手間を掛けさせては。エドワードは慌てるが、アルフォンスは喜んで手伝っている。
「なあに、気にするな、遠慮はいらん。私は賑やかな食事の方が楽しいし」
そういやこの家には夫妻だけみたいだし、普段二人だけの自分たちと似ているかもしれない。そう思うと実に楽しい食卓になった。夫人は気さくな人で、コンラッドは現役時代の話を交えながら二人の話をよく聞いてくれる。楽しくて笑ったのは久しぶりかもしれない。エドワードはその夜ゆったりと眠りについた。


2日もすれば風邪はすっかり良くなった。その間にアルフォンスは夫人と随分仲良くなったようで、キッチンの手伝いもしているらしい。エドワードはというとコンラッドのチェスの相手をしたり、屋敷の手入れを手伝えるくらいになった。普段忙しなく旅に出ている生活からは、たとえ僅かな間でも、落ち着いた日々は思いがけない楽しさとなる。だがロイはここに来たのは半分仕事も兼ねていたらしく殆んど出かけている。
「君たちが来てからもうじき一週間だな。実に楽しい日々だよ」
広い庭での散歩に付き合うエドワードにコンラッドは機嫌よく話し掛ける。エドワードは、ふと訊ねたくなった。軍属の身でこんなことを聞いていいものかと思い、遠慮がちに。
「あの、大佐はあなたの部下だったのでしょう?…」
「ああ、短い間だったが。いろいろあった。でも縁あって今日に至る、だよ…気になるのかね。君の上官は、ロイは、知っての通り優秀だが、あれでも繊細な男でね。そして不器用というか、な」
エドワードは首を傾げると複雑な表情になった。大佐が繊細というのは何となくわかる気がする。だが不器用というのはどうにも分らない。自分の知る限りは万事にソツ無く皮肉な顔を見せているから。 黙ってしまった少年にコンラッドは歩みを止めた。そしてエドワードに向き合い優しく語る。
「1週間近くも一緒に生活してると君たちの事情は多少は分るつもりだが、無理をするんじゃないよ、子どもなんだから。急ぎすぎると見えるものも見えなくなる」
「…オレは、子どもじゃないです」
見つめる視線の優しさに何故か困ってしまって、ふいと目を逸らす。そんなエドワードにコンラッドは小さく漏らす。
「君とロイは…似ている気がするよ」




「兄さん、ほら早く」 「待てよ、オレ、荷物が」
日の経つのはあっという間で、イーストシティに戻る日になった。玄関先でふたりはわたわたと支度をしていた。―――今日でお別れかぁ。なんだかんだといっても楽しかったよな。じいさんとばあさんもいい人だったし。大佐は、大佐は、あれから特に何もなくって俺は却って良かった気がするけど。だってさ、あんな態度を取られたあとじゃ改めてなんていいにくいし。ごめん、こころのなかで言っとくよ。俺、ちょい、あんたに言葉が過ぎたって。
 ちらちらと男を見ると、ロイはコンラッドと話をしていたが、視線に気付いたのか、顔を向けると二人を呼んだ。
「ちゃんと挨拶しなさい。特に、鋼の。君は風邪でご迷惑をお掛けしたんだろう」
いつものように皮肉たっぷりの憎たらしい大佐。悔しいがその通りなので何も言えない。
「挨拶はいいから、二人とも、ああロイももっとこちらへ」夫妻が3人を手招きする。
「君たちのお蔭で素晴らしい時間を過ごせたよ。君たちに祝福のキスをさせてくれないか、最後のね」
「もうこれで行っちゃうんでしょ、お別れのキスよ」
また暫くは会えないのね。寂しいわ。そういう夫人は微笑みながらも潤む目元を彼らに見せていた。 夫妻は先ずロイにキスを落とし「ロイ、君の現在と前途と祈っているよ」と肩を抱く。
そしてアルフォンスに「私の大きくて小さな友人に幸いを」と鎧の手を硬く握る。
「エドワード、君の旅が早く終るように。また会えるように」
最後にエドワードの頬と額にキスをして、夫妻は祝福を終えた。




「鋼の。どうした。塵でもはいったか?」
駅に向かう途中、目を擦りながら空を見上げる少年に男が訝しげに訊ねる。少し離れて歩く彼は何度も何度も目を擦っていたからだ。
「…いーや、なんでもねーよ。空が眩しいから、目に沁みるんだよ」
少年の視界にはぼやける遠い青空。その日の南部の空はきらきらと素晴らしく輝いていた。




04 10/15 初回UP
05 08/21 加筆UP



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