15   ため息 







「ふぅ、さすがに疲れちゃったわね」
そう呟きながら肩をとんとんと叩く。ホークアイは今夜も残業をしていた。
ロイが出かけてからすでに数日。副官としては常に側にいることも大事だが、上官の仕事を把握して留守を預かるのもそれと同じくらい大事であった。
普段からなにかと仕事を滞らせがちな上官であったが、特に不在のせいもあって、最近は書類の処理が一気に増えた。ここ数日の机の上は几帳面な彼女らしくなくひどく散らかっていた。
今日何杯目かのコーヒーをすすりながら黙々と片付ける。
(あれは執務室に置いたままだった)
確認したい内容があって、それはロイに回したままだったのを思い出した。
執務室に入ると、主不在の部屋は広く感じられる。そして机の上には溜まった書類。目当てのものは埋もれてしまっているようだ。やれやれ。
仕方なくホークアイは書類の発掘を始めた。一枚づつ手にとって確認するうちに束がばさりと落ちて、書類がひらひらと床に散った。
(いけない)
ホークアイは床に屈んで拾い集める。すると机の下にも白い紙がちらりと見えた。まあ、こんなところにまで、と拾い出してみるとそれは小さく丸めてある。
(…大佐が処理を忘れたのかしら?本当に困ったものね)
しかし、広げてみるとそれは例の列車の乗客名簿だった。
(今頃こんなところに?)
……このひとたちは、自分たちが関わったことも気付かないひとが殆んどなのね。気付いたところで、民間人が巻き込まれずに解決するのは当然であって、軍は何一つ感謝されない。軍人なんて元々好かれるものじゃないけど、嫌われている相手を守ってやらねばならないことのほうが多いのだわ。ほんと、つくづく皮肉な職業を選んだものだわ…
だからこそ、乗客が無事で良かった、ホークアイは心からそう思う。
ロイが座る大きな革張りの執務椅子の背もたれに手を触れて、そんな事を考えながら眺めていた名簿、ふと目が止まった。
コンパートメントの乗客名のある箇所が、そこだけペンでぐちゃぐちゃと消してあった。が、目を凝らすと字を読み取ることは出来た。それはホークアイもよく知っている名前。

・グレイシア=ヒューズ
・エリシア =ヒューズ 

(あ…!)

ヒューズ中佐のご家族があの列車にいらしたのか。そして大佐はそれをご存知だったのか。
そういえば思い当たる。
ロイは列車の客層はエドワードの推察通りだと、それだけ言って名簿を丸めてしまったことを。その手が微かに震えていたことを。決して気取られるな、とロイらしくもなく、しつこいくらい命令していたことを。現場で酷く苛立っていたことを。

(………)
それは疲労と事件の狡猾さへの怒りから来るものだとホークアイは思っていた。もちろんロイは優秀な職業軍人で、冷静な判断を下せる司令官であることは間違いない。余計な私情を挟まないひとであることも知っている。不必要に他の人間の目に触れないように名前をペンで消してしまったのだろう。
だが、表に情を挟まない分、裏で情に厚い一面もあることを、長年の付き合いでホークアイは感じ取っていた。ヒューズの家族がいると知ってしまったからには気にしないではいられなかった筈。でもロイは決して愚痴すら口にはしなかった。
テロの取引に応じられないのは立場上当たり前だが、万が一のことがあれば、大切な親友が愛する妻子を失い、失意のどん底に落ちるのを、ロイはとても恐れていたのだ。そうなればそれはすべて自分の力不足だと考えるのだろう。あのひとはそういう甘さがあるから。
でももし、乗客がヒューズ中佐ご自身だったならば、とホークアイは考える。
お互いどうするべきか知っている職業軍人同士、大佐はあれほど苛立ったのかしら?
そこまで考え、立っているのに疲れてしまって、ホークアイは背中を窓際に預け直す。


新たな疑問が湧いた。
エドワードを、わざわざ現場に同行させたのは何故なのか。それは?
エドワードはロイが見つけた少年で、ロイがなにくれとなく目を掛けているのは誰もが知っている。
なのに、危険だからと、一度は遠ざけたあの少年を近くに置いたのは、大佐は無意識に誰かを自身の標として求めていたのかもしれないわ。
私はエドワード君に、自分を信じられないなら大佐を信じていればいい、といったのだけれども、大佐もまたそうだったのだわ。
まだ幼さの残るエドワードという少年を、ロイはあの時求めていたのだと。
ロイが子どもを頼りにするとは今までは到底考えられない、と思う。
(でも多分そうなのね)
ホークアイは副官としてロイの心情を見抜けなかった自分の未熟さを思う。副官は上官を孤独にしてはいけないと思うから。
そして更に考える。エドワードの協力でヒューズの家族を守れた時から、エドワードもまたロイの特別なひとになったのではないかしら、と。
エドワードは、エルリック兄弟は、軍部にとっても自分にとっても可愛い存在で大切だと思う。それは間違いない。
鉄橋から落ちそうになったエドワードをロイが助けようとしたのは当然のことだけれども。
ホークアイは、あの時、二人を救出に鉄橋に向かった自身の心を振り返った。もし、ランドが現れなかったら?間に合わなかったら?私一人で救出できただろうか?ロイはもろともに落ちていたのではないかとホークアイは考え、身震いする。

(冷たい…)

ぞくりとする寒さに後ろ手をやれば、もたれた窓の桟から感じる外気に軍服の背中がすっかり冷えてしまっていた。
(でも、あの状況で、私はエドワード君を優先できたかしら?)
普通、軍人としてなら、まだ年端もゆかぬ少年を先ず助けるべきなのだろう。
だけど副官としてなら… もしエドワードの存在が… 
(…いけない、これは私の自己満足の選択ではないの)
もしかしたら自分は少年を見捨てるつもりだったのだろうか?
辿り付いた自身の思考に呆然となる。
ロイを守るのが自分の道なら彼の大切な人たちを守るのもそうではないのか。エドワードが自分に見せた屈託の無い笑顔が浮ぶ。
(ごめんなさい…許されない、恐ろしいことよ…こんな)
それでも己の心の水底に沈む、冷たい黒い固まりを見てしまったホークアイは、寒々とした深い深い息を吐いた。









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