アパートの前に急停止した車から数人の憲兵が降り立ち、階段を駈け上がっていった。程なく怒声と物の倒れる音が上から降ってきたが、それは数分で止んだ。しばらく沈黙が流れたのち、やがて野次馬たちがざわめき、その人垣が割れると、そこには手錠を掛けられ連行される中年の男と、その後を妻らしい女性が追いかけようとする光景が現れた。が、憲兵は男を車に押し込めるとすぐに走り去り、後には泣き崩れる女性だけが取り残された。 「気の毒だけどな」 「ああ…関わらない方がいいぜ」 その場を遠巻きにするように、そんな言葉がひそひそと交わされていた。 「なんだ?何かあったのか?」 「…ちょっとした捕り物みたいだけど。あの車は憲兵隊のみたいだよ」 図書館への途中、たまたま騒ぎの近くをエドワードたちが通りかかった。二人は野次馬たちと走り去る車を交互に見やりながら、近くにいた人に一体何があったのかと訊ねてみる。 「なんでも買収…そういう容疑らしいぜ、坊や」 「…ふーん」 金銭絡みの犯罪なんて別に珍しくもないや、どこにでも転がってることだし、何ごとかと思ったけど。エドワードはちょっと顔をしかめただけで、踵を返すと、またすぐに図書館へと向かった。 (急ごう。今日は新しい本を見るんだから) 少年の頭からは、たまたま遭遇した些細な事件はもうきれいに消えていた。 図書館に着くと閲覧者カードに名前を記入し、身分証替わりに銀時計をちらりと見せる。これはどこでもいつものこと。早速書庫へ向かおうとしたとき、係員が二人に声を掛けた。 「あっ、エルリックさん?エドワード・エルリックさん?伝言と資料が届いてますよ。ええと、マスタング司令官から」 「大佐から?」 はい、これが伝言です、と小さな封筒を手渡される。 大佐がわざわざなんだろうと、訝しがりながらも、エドワードはそれを急いで開いた。 ―― 未入庫の新しい研究資料をここに預けておく。正規の手続きを踏むと、閲覧出来るまでにかなりの日数を要するから、入庫処理前に先に見るといい。済んだら係に渡しておくように。 ロイ・マスタング ―― 「うわぁ、すげっ!」 共に渡されたのは箱一杯と言って良いほどの資料の山。目を通すだけでも数日は要するだろう。 エドワードは驚きで目を丸くしながらもぱらぱらとめくってみる。 するとそれはちょうど調べたいと思っていた分野のものだった。 「兄さん、すごいね、これ」 「ああ、タイムリーとはこのことだよな。でも何でわかんだろ」 最新の資料を目の前にして興奮しながらも首を傾げるが、それはすぐに思い当たった。ああ、そうそう、ハボック少尉に会ったっけ、とつい先日の街でのことを思い出す。あの時少尉に図書館通いの話をしたし、そのうち司令部に行くからと伝言も頼んだっけ。きっとそれでか。 「…大佐にしちゃぁいいとこあるじゃん」 嬉しいけれど、ついつい、へへっと皮肉を言ってしまう。 「兄さん、厚意はありがたく受けなよ。たまには素直に感謝したら?」 「う、うん」 温厚で礼儀正しい弟にきっぱりと窘められ、兄は身を竦める。これだけの量の最新資料を、まず自分たちにと、優先させてくれているのである。司令官の職権乱用といえばそれまでだが、やっぱりこれは嬉しくありがたいことだ。仕方ない、今回は素直になろう。 (そうだよな、これはお礼を言いに行かなきゃな) そうして館内の別室を借りて、資料の閲覧を始めたのは良いが、どうもかなり高度なレベルのものらしい。疑問点を見つけるにしてもこの膨大な枚数をまず読んでいかないとどうにもならないだろう。二人はすぐに資料に没頭し始めた。 大通りから一つ外れた裏道の電話。 男が足早にそれに近づき、受話器を取って小銭を落とした。番号を入力すると ツー、と音がして繋がったようだ。しかし状態が悪いのか、混線しているような雑音が入る。さて、どうするかなと思った時、相手が出た。 「オレだ」 押し殺した低い声で探るように一言。しかし受話器の向こうからは沈黙の重圧が伝わってきて、男はごくりと唾を飲み込んだ。 「…要らねぇのか。どんなモノでも欲しいって、条件を知りたいと言ったのはそっちだろ」 するとやや間があって、今度は怯えたような焦ったような声が小さく聞こえてきた。ふふん、コイツ迷っていやがる、男はそう思ったが、モノは試しと敢えて強気に出てみせた。 「明後日、公園の広場前のベンチで待ってるぜ。こっちの目印は…」 すると受話器の向こうで、こくりと頷く気配がした。 ―――夕刻の高台の公園。 昼間は親子連れで賑わう場所だが、夕刻ともなると恋人たちの時間となる。 熱く語り合う二人で、右も左もベンチは次々と埋まっていく。男はそれに舌打ちをしながら相手を待っていた。あれから相手は連絡してこない。だが、多分、いや間違いなく今日ここに現れるだろう。程なく広場の向こうから、おおよそこの場に似つかわしくない地味な男が姿を見せた。だがしかし、こっちも男だ。この場に胡散臭げな男二人というのは、あまりにも違和感が有り過ぎる。 「アンタだな…見てのとおりだからな。ちょい場所を変えようぜ」 指を立てながらそう言うと、地味な男は小道の脇の林の陰に引き摺り込まれ、いきなり全身を探られる。 「余計なモノも無し、余計なヒトも連れていない…いいだろう、先ずは話を聞こう」 男が地味な男を値踏みするかのように、見下した態度で出る。 「ありがたいが、さ、最近はどうも…大丈夫なのか?」 「こっちが無事なんだから大丈夫だろうよ。違うか」 男はくくっと低く笑って余裕を見せた。 「いや、私は、ただ…条件は」 「…おいっ!」 足音がして、二人は慌てて身を隠す。だが、重そうな足音と共に現れたのは金髪の小柄な少年だった。 急いでいるのか、暗がりの男達には全く気付かず、明るい街灯の下をすぐに過ぎ去っていった。 「なんだ、子どもか。てっきり」 地味な男は冷汗をかいている。どうにも気弱そうだ。 (こんなのが客とは嫌な話だぜ) 男はつくづくとそう思ったが、顔には決して出さないでいた。 「……車の中で話の続きにはいるか?それとも止めるか?」 にやにやと、男はわざと煽るような口調で言うと、車に向かって歩き出した。 二人が資料に取り組み始めてから数日。エドワードは1日の食事を、朝、街で買い置いたパンと飲み物で済ませていた。この図書館は場所が少し外れているので、弟はサンドくらいは買いに行くよといってくれるが、彼も資料解読には貴重な頭脳だ。買い物の時間が惜しい。そういうわけで二人は開館から閉館までずっと図書館で過ごしていた。 「兄さん」 アルフォンスが兄の邪魔にならないようにとそっと声を掛ける。 「…うん?」 「いくらなんでもそろそろ一度は司令部に行くべきなんじゃ」 「…だな。もうそろそろ、明日こそいくよ」 こんなに夢中になれる面白い資料を見せてくれて。明日は行ったら大佐に素直に礼を言おう。…気持ち悪がられるかもしれないけど。 エドワードは珍しく小さな笑みを見せた。 ☆ |