2   いってきます       PROLOGUE










「君たちを待っていたよ、この1年。」
そう男は続けた。穏やかな笑みを浮かべてソファに掛けるように促す。相手が自分たちのような子どもでも対応は丁寧で、物腰と言葉は柔らかい。が、その中に己への確信のようなものが感じられた。この余裕の態度はきっと相当な自信から来ているのだろうな。少年は黙って男を見ている。
更に、あまり待たされると、ここにはいなかったかもしれないがね、と何気に 言ってのけるを聞いて、少年は先程の「自信家」という項目を、この男への知識の ページの「野心家」の隣にぺたりと貼って付け足した。うん、まあ、とりあえずはこれでよい。

男の名はロイ・マスタング。 軍人で、国家錬金術師で、東方の司令官で、歳はまだ若そうだ。ちいさくは無いが、軍人としてはそう大きくも無い体躯。豊かな黒髪を額に降ろしている所為だろうか、いっそう年若く見える。ふたつの瞳は髪と同じく夜の闇の黒い色で、内奥に野望を秘めていそうな輝きを持っている。
コイツの階級は、ええと、…確か会ったときは…んーと、そう、中佐だった。
エドワード・エルリックと呼ばれた少年と、その弟アルフォンス・エルリック。
二人がこの男について知っているのはまだその程度だった。男に会うのはこれが二度目なのだから。
――-そしてエドワードはずっと考えていた。ずっと。正確には、初めて男に会ってその話を聞いたときから。

この男はいったい自分をどう見ているのだろう。俺はこのひとをどう見ているのだろう。
俺みたいな子どもにこんなチャンスをくれてさ。 俺にはそれモノにする自信はあるけれど。
それはとてもありがたいとは思っているけれど。俺は代わりに何を差し出せば良いんだ。

「どうした、君はそんなに無口だったのかね。それとも怖いのかね」
挨拶が終ったあと、押し黙ったまま自分の顔を見つめるエドワードに、 ロイが面白そうに訊ねた。ん?と身を屈めて顔を覗き込むように そう言われて、エドワードは、思わず大声を出してしまった。
「…怖いって、なにがだよっ」
自分が子どもとしてあしらわれたように思ったから。 子どもだという自覚は多少はあるが、それはもうこれから先、自分には必要の ないものだとエドワードは考えていたし、なにより大人にからかわれるのは気分が悪い。
「兄さんてば、ほら、行儀悪いよ。大声出してさ。第一、失礼だよ」
横に座る弟のアルフォンスがちょんとわき腹をつついて窘める。うわ、ここで弟に注意されるなんて…しまった。ついかっとして声を大きくしてしまったし。それにこの言葉遣いじゃやはりこの場はまずかったか…却って、自分の子どもっぽさを露呈してしまったことに気が付くと、エドワードは恥かしさで赤くなるる。そして再び大人しく黙り込む。
ロイは次々変わる少年の態度に、面白そうに少し目を見開いて、口元で小さくくつと笑うとこうを言った。
「お茶を入れさせよう」
男は内線で用を言いつけたらしい。暫くすると、執務室の扉が開かれ、金髪の若い女性士官が一礼して入ってきた。銀のトレイに3人分のセットを乗せ、白い小皿に焼菓子も乗せている。
お茶を運んできた女性を見て、エドワードと弟は「あっ」と小さく声を上げた。そう、この女の人はこの男に一緒についてきていた人だ。副官とか言っていた。女性は少年たちの前にひとつづつカップを置いてやる。アルフォンスの何かいいたげな様子に、分っているのよ、と優しく微笑む。
「…えっ、えと、確か、ホークアイしょうい、です、よね。」
弟が自信なさそうに、それでもはにかみながら嬉しそうに訊ねる。彼女に誰かの面影でも見たのだろうか。
「あら、覚えていてくれたのね。でも今は少尉じゃなくて中尉なのよ。」
あれから階級がひとつ上がったの。そう、それからね、マスタング中佐じゃなくて、今は「大佐」になられたのよ。ロイ・マスタング大佐よ。男の顔を見ながら、略式の敬礼とともに、少年たちに嬉しそうに誇らしげにそう教える。そして男も満足げに頷いている。恐らくこの副官に全幅の信頼をおいているのだろう。 彼女はエドワードに微笑み、それから男の指示を仰ぐと仕事に戻っていった。


「では、本題に入ろうか」
ロイの表情が少し変わっている。それもそのはず。 エドワードはロイの推挙で、錬金術師の国家資格試験を受けに来たのだから。この国では錬金術は科学技術として特化厚遇され、技術者は錬金術師と呼ばれている。 試験は5日後。このイーストシティではなく、この国の首都、セントラルで行われる。卓越した知識と実践的な技術を試される試験だ。大変に難しい、超難関試験であるが、これを志すものは多い。
それは国家錬金術師になると、莫大な研究費と様々な特権が与えられるからだ。研究にのみに没頭しても、十分生活できるだけの研究費。地位は半軍人の軍属ではあるが、民間人でもいきなり少佐相当の佐官地位が与えられる。そして付随する数々の諸手当て、優遇措置、軍施設利用、資料閲覧…数え切れない特権。
だが、権利にはそれなり義務が伴うものである。権利に比例して義務も大きくなるのは当然である。
義務とは、錬金術の技術と研究を国家に帰属させること。 この国は軍事国家なので、国家錬金術師とは、そのまま、軍の錬金術師となることを意味する。 軍の命令に従うこと。そして有事の際には召集され、自身を兵器として錬金術を使わねばならないこと。当然、人を殺すこととなる。だが、これらは義務として絶対のものである。そも、国家錬金術師は自身が人間兵器の研究者なのだから。
君にはその覚悟は出来ているのか?ロイはそう言いたいのだ。少年の金色の瞳が揺らめいた。だが躊躇いは見えない。
「オレは引き返さない、引き返せない。前に進む。そのためにここに来た」
少年は短く、はっきりと答える。外見の幼さからは想像できない程に。金色の瞳の揺らめきは内奥の焔なのかもしれない。 その答えに、金の双眸を見つめていたロイは満足げに言った。
「大いに結構」


都会の空は高く遠くに見え、煉瓦造りの建物を包み込むように、オレンジ色の雲が少しづつ数を増やして空を染めていく。夜のねぐらへと戻る街鳥たちが群れを成して羽ばたき、雲のまにまに黒い点となって、シルエットを落とす。街のざわめきはいっそう大きくなり、行き交う人も足早になるこの黄昏の時。
遠くの方で夕刻を知らせる鐘の音が風にのってかすかに響く。

今後の打ち合わせや、受験申請書類の事後確認等で、彼らが司令部を 後にしたのはもう夕刻だった。
司令部を後にしたロイは先に立ってゆっくりと歩いて行く。トランクを抱えた幼い兄弟はそれに遅れまいとついて行く。初めての都会に、大荷物を抱えた少年は難儀そうに歩いていた。もっとも、司令部を出る時に、大変だろうそれを貸したまえ、と鞄に手を出されたのだが、少年は断固として触らせない。…だって自分の荷物は自分で持つものだ。
今日は男の家に泊まる羽目になってしまった。試験が終るまでは、何かあった場合を考えて、すぐに連絡の取れる私の目の届く場所でないと困るだろう。そう言ってロイは兄弟が泊まろうとしていた街の安宿を、部下に言いつけてキャンセルさせてしまった。もちろん、兄弟に反論の余地は無かったが。
いきなり「たいさ」の家なのかよ?…ちえー、鬱陶しいだろ、固苦しいだろ、見張ってんかよ、菓子喰えねぇよ、寝坊出来ねぇ…ぶつぶつとエドワードは悪口を放ったが、それでも男への興味は棄てきれない。
司令部から結構歩いただろうか。街中の喧騒が突然途切れ、住宅街が始まっていた。 その静かな住宅街の一角に男の住まいはあった。とりあえずは一人でここに住んでいるらしい。 そしてふたりは、別々の部屋を与えられた。兄弟は目を丸くする。
「好きに使うといい」
あっさりとそれだけ言うと、男は扉を閉めた。部屋に少年が取り残される。

荷物の入ったトランクを床に放り出し、大きなベッドに寝転び、はぁと息をつき、一人になると、様々な出来事がエドワードの脳裏に去来した。今日1日の目まぐるしかったこと。何より男に再会したこと。 自分がここに来るきっかけになった、自分と弟の身に起きた故郷での出来事。 そして自分の決意。 一年前、俺の意志を聞いたときばっちゃんと幼なじみは猛反対した。 でも最終的には思うようにしろといってくれた。 そして俺たちは決意を行動にしてここにきた。 出発する時、ばっちゃんはいつものように朝飯を作ってくれ、 ちょっとそこまで出かけるときのように「気をつけていっておいで」とだけ言った。 そして、とぎれとぎれに「いってきます」と言うのが精一杯だった。 「いってきます」、その当たり前の返事がすんなり出なかったのは初めてだったか… うとうとと夢現で思い出す故郷。

夕食時。もしかしたら男が作ったのか、それとも誰かに作らせたのか、よく分らない食事が並ぶ。少年にすれば「たいさ」と席を共にするのは初めてだ。そして、まあ、話題といえば、当然ながら錬金術の話くらい。むすっと口数少ない兄に代わって、弟は丁寧に言葉を選んで「たいさ」に返す。こんな子どもと食事を摂ること自体珍しいだろうに、それでもこの男は余裕と礼儀正しさは忘れていない。…やなやつ。何だか違いを見せ付けられているようで、面白くない。エドワードには時間の流れがやけに遅く感じられ、やっとのことで、よく分らない疲れる夕食が終る。部屋に引き上げる時、アルフォンスが小さく呟いた。
「昨日、いってきますって言えなかったよね」
エドワードは胸が痛んだ。この弟もまた同じことを考えていたのか。中途半端なまでここへ辿り付いた気分を抱えているのか。 この弟にはそういう思いはさせたくない。何よりもこの決意は弟の為でもあるから。
「いま、いってきます、って言ってもいいかな…」
埒もないあまりにも幼いことを弟が口にする。それは自分たち自身に向けても「いってきます」といいたいのだ。自分への決別。兄にはそれが痛い程判った。こればかりは男に子どもっぽいと笑われても構わない。
「ああ、そうしようぜ」
エドワードの部屋に戻ると、二人は窓を開け、夜空に向かって声を揃えた。
「いってきます」
ちいさな控えめの声は、二人と夜空にだけ聞こえた。







04/08/14 初回UP
05/01/23 加筆UP





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