20   残 業 







川を渡ると、東方司令部の正門に向かう。
走るように急いできたエドワードは息が乱れている。 アルフォンスも兄に遅れまいと、鎧をがちゃがちゃいわせてついてくる。門に立つ兵士に敬礼しながら階段を一気に駆け上る。 ここまできたらもう引き返せない。この勢いで礼を言ったらすぐに帰ろう、長居は無用だ。

久しぶりの司令部の廊下は、すれ違う人たちがこちらを見て、「知ってるぞ」と、含み笑いでささやきあっているような気がして思わず耳を塞ぎたくなる。ロイに会うからなのか、走ってきたからなのか、もうどっちか分らないくらいどきどきして、胸を押さえて息をする。
エドワードは『 司令部 』の札を確かめると、思いっきり勢い良くドアを開けた。
「こっ、こんばんはー!!」
その大声に仕事中の人間が一斉に振り向いた。突然飛び込んできた少年に、皆、呆気に取られてしまって声も出ない。唐突な沈黙が室内を支配する。
「あの…」
口篭もりながら立ち尽くす。…そうだった、ここは仕事をする場所だった。それを忘れてひとりで空回りをしてしまったようで自分がひどく恥ずかしい。気まずさで動けない。頬が火照って熱くなる。
「エドワード君、声が大き過ぎです」
笑いを含んだ柔らかな声に振り向くと、ホークアイが書類を抱えて立っていた。
「久しぶりね、お入りなさいな。というか、あなたたちが入ってくれないと私が入れないのだけど?」
恥ずかしさで立ち尽くす自分をさり気なくホークアイは促してくれる。彼女といい、ハボックといい、どうしたらこんな風になれるのだろう。それは彼らが大人だからなのだろうか。 エドワードは中尉の気遣いにありがたく思いながらも、頭の残り半分では、ロイのことをどう切りだそうかと躊躇っていた。
いつものように「大佐は?」  この一言で済むはずなのに。
「えっと、あのさ…」
そもそも、エドワードが司令部に来るのはロイに用があるからであって、それ以外のことなんてなかった筈だ。誰に用事なのか皆知っているのに。だったら今更ぐずぐずと躊躇う必要もないだろう。でも今日のエドワードは、そんなことにも気が付かない。独りただ悶々と悩み続ける。

「…知ってるぞ、お前が何を買ったのか」
ブレダが大きな顔をにゅっと突き出しぼそっと呟く。その声にエドワードは肝を潰し、冷汗を噴出して壁に張り付いた。
「な、な、何って…見てたのかよっ!」
「ん?エド、なんか買ったのですか?」
ファルマンまでが面白そうに首を突っ込む。皆、仕事をしていた筈なのに、いつの間にかエドワードは取り囲まれている。
「…見たぞ、エド、お前が朝…」
エドワードはやはり見られていたのかと青ざめて震え上がる。やめてくれ、こんな皆のいるところで。聞こえてしまう。向こうの執務室にいる筈のロイにはまだ知られたくない。 第一、これから先も、このことはロイと自分以外は誰も知らなくていいことなのだから。
「…お前さ、大通り――」
「わああああっ!!やだっ、やめろよッ!言うなよッ!」
エドワードは首を振って、またもや大声で叫ぶ。だが、ブレダは構わず強い口調で迫る。まるでエドワードは尋問される容疑者のようだ。
「今更わめくくらいなら、はじめから買わなきゃいいんですよ」
今度は腕組みをしたフュリーがうんうんと頷く。確かにそれはそうだけど、買ってしまったものはどうしようもない。ついには弟も、一体何を買ったのだと迫ってくるし、エドワードは殆んど泣きたい気分になった。
「あの、オレ、その、えと……って、アンタらに関係ねぇだろぅッ!」
「大ありだ!だったら俺たちが"禁句"を口にしたって怒るなよ?」
そう言われて周りを良く見ると、強い口調ながらも皆の目は笑っているようだ。
…え、これって一体何のことだ?訳が分らなくなり、エドワードは狐につままれたような顔になる。ブレダはそんなエドワードの頬をつつきながら告げた。
「お前、大通り向こうにあるベーカリーで甘い菓子パンばっか買ってただろ?ジャムやチョコの。おまけに、コーラも買って飲んでたろ?あのな、ちっとは栄養あるモン食えよ…だから小っせえんだろが
「はぁ?菓子パン?コーラ?」
ああ、そう言えばそんなもん買ったっけ。コーラは文具店を出てから走りすぎて、喉がカラカラになったから、つい。
―――手帳のことじゃないのか。
エドワードは自分の思い込みに気付いた途端、力が抜けた。汗びっしょりで床にへなへなと座り込んでしまいそうだ。皆に息抜き替わりに遊ばれただけだろうが。傍らで弟が、内緒でまたコーラなんて飲んでいたのかと怒っているが、そんなこともどうでもいい。本当に俺はどうしちまったんだ。
張り詰めた緊張が解け、視点の定まらぬ目を見開いたまま、突っ立っているエドワードの心など知らずに、彼らは面白そうに笑いながら告げる。
「久しぶりにきたのは大佐に用なんだろ?大佐は今、別室で資料を見てるぜ」

エドワードは司令部室を出て、教えられた部屋に向かう。最後の廊下を曲がった途端、突き当たり正面にある『資料室』の文字しか見えなくなった。廊下にいるはずの人も存在を消してしまったかのように。遂にロイの顔を見なくてはならない。
エドワードはもう一度ポケットをそっと押さえた。


「誰だ」
ノックをすると短く鋭い問いが返ってきて、エドワードはびくっとする。
小さな声で返事をしながら扉を薄く開け、恐る恐る中を覗いた。薄暗い部屋の中でロイが振り向いた。
(あっ)
振り向いたロイの目。夜の色の筈の双眸は、薄暗がりの中で鋭く緑色に光る、そう、まるで獣のような目に見えた。 しかしそれは一瞬のことで、自分を認めたロイの目は、今度は不安げに揺れる色に変わった。なぜか迷子のようだと思った。
エドワードはロイを凝視する。
「…鋼の。私の顔に何かついているのかね」
「え」
エドワードは何度も瞬きを繰り返す。静かに話すロイの顔はいつも通りで、黒い瞳も表情も特に変わっていない。何だ、さっきのは。錯覚だったのか。
「同じ街にいるというのに久しぶりだな。元気か」
だが、エドワードはそんな声など聞こえないかのように、ロイから目が離せなくなった。ロイの顔を見たくないのではなかったのだろうか。
「兄さん、兄さんってば!」
弟の声に慌てて振り向く。弟が兄をつつく。そうだ、ここに何をしに来たのか思い出した。資料のお礼を言いに来たんだ。でも言うべき言葉が上手く出てこない。上手く言おうとすればするほど、口の中で同じ単語が転がり、どもるだけで、エドワードはひどく焦った。
(今日の俺はまったく、なにを無様なことをやっているんだろう)
そんなエドワードの様子を見て取ったのか、ロイが告げる。
「鋼の。ここでは落ち着いて話も出来ないだろうし、執務室に戻るか」
ロイは椅子を引いて立ち上がり、部屋を出た。ゆっくりと執務室に戻るロイの後を、エドワードは黙ってついていった。外はもうすっかり暗く、中庭に面した、灯りの点った廊下にはめられた窓ガラスが鏡となって、歩く三人を映す。エドワードは視線を傾け、窓に映る自分を見る。そして窓の中を歩くロイの横顔を覗き見た。が、歩く度に揺れる黒髪に隠れ、その表情は分らない。



(……100点)
(まったく、予測がつきませんよ)
(……)



ロイの執務室。ここも久しぶりの所為か足元の感触が違うように感じる。あれだ、しばらく留守にしていた部屋を歩くと、床に違和感があるけれど、これはそれに似ている。再び落ち着かなくなったエドワードは、ロイに言われるままにソファに身体を落とす。
「今日はやけに大人しいな。さっきもそうだったし、どうかしたかね」
ロイはお茶を勧めながら少年たちに訊ねる。しかしエドワードは黙っている。
「兄さんたら、連日連夜、資料に夢中になってしまって、ちゃんと寝てないんですよ。…あっ、あの、大佐、資料、ありがとうございます。僕たち、あの資料が凄く嬉しくて、今日はお礼を言いに来たんです」
今日は全く役に立たない兄を見限ったのか、代わりに、アルフォンスがロイに礼を言う。ロイはそれを頷きながら聞いている。
「私も少し見ただけだが、まともに眠れないくらいあれは難しい内容かね。鋼の。大丈夫か、倒れてしまうぞ」
「難しいというよりすげぇ面白い考え方なんだよ。…あの…あり…がとうな、大佐」
黙って座っていたエドワードが急に口を開く。伏目がちに、頬を紅潮させ、はにかむように、やっとのことでロイに礼を言う。いつになくしおらしいエドワード。
「君がそんなに夢中になってくれるなら、私も資料を見せた甲斐があるというものだ。あれが役に立ってとても嬉しいよ。だが夜は早く寝なさい。身体を壊す」
ロイは満足げに深く頷いた。なのに、眉根をわずかに寄せて小さく息をついた。目の前の少年たちはそれに気付かない。ロイはさらに続ける。穏やかに。
「その調子では、当分図書館通いは続けるのだろう?他にも私にできることがあるのなら便宜は図ろう。遠慮なく言いなさい」
「うん、ありがとう」
「ほう、今日の君は大人しいだけでなく素直だな。いや、可愛らしいというか」
「…なっ!」
可愛らしいと皮肉を言われても今日はなんと返したらいいのか。エドワードは開きかけた口を噤むと座りなおした。 ロイは足を組み、ソファに深くもたれてそんな少年の顔を眺めやる。きらきらと潤んだ金色の双眸が美しいと思う。
だが、見詰めるロイの顔が微かに曇り、エドワードから視線が逸れた。しばらくの後にロイは黙って立ち上がると、執務机の引出しの一つを小さな鍵で開けた。
そこには古びたレターケースがあった。







*もう少し





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