22   背 中       ACT.1   Edward







「ああ、アルフォンスさん、部屋を開けますのでちょっと待ってね」
図書館の係員は、もうすっかり馴染みの顔になったアルフォンスに愛想よく声を掛けた。アルフォンスは自分の記録と、エドワードのノートを持って部屋に入る。
そこには既に、例の新しい資料が置いてあって、アルフォンスは係員に礼を言うと早速取りかかった。
静かな館内には、本を運ぶ荷台の車音と、閲覧者が通路を歩きながら交わす会話が僅かに聞こえる。隣り合った軍関係の資料室は、訪れる人もまれなのだろう。古い木造の窓枠が柔らかな日差しに温められて、思い出したように、ぴし、と膨張音を響かせる。いつものように、大きな窓から明るい日差しが存分に射しこむこの部屋は、ちいさな温室のように心地良い。 中央に置かれた、資料をのせた大きなテーブルと二つの椅子。しかし、椅子に掛けているのはアルフォンスだけで、もうひとつは陽だまりの指定席となっている。魂だけの鎧の少年は、透明な陽だまりを友に、資料のページを静かに進めていた。


エドワードはベッドで何度も寝返りを打っていた。動きたくないのに寝返りばかり。
だるさの所為か、身体が本能的に一番楽な姿勢を見つけようとしているらしい。
ずるずると身体を動かす度に、機械鎧が軋みながついてくる。冷たい筈の鋼は妙に生ぬるく、ぬらぬらと奇妙な黒い光沢を放つように思える。肩と脚の接合部が鈍い疼きを脈打ち続け、エドワードはそのだるさに重たげな呻き声を絞り出した。血管に湯でも流れているのではないかと思うような生暖かさ。いっそのこと腕も脚もちぎってしまいたいような不快感。
カーテンは閉じられたまま、光を遮り部屋は薄暗い。空気は重く冷えている。
宿の小さいベッドのシーツを汗と寝返りでしわくちゃにして、重ねた毛布の中でエドワードは寒さに震えている。金髪は脂っぽくなって、細い筋を作り、顔にぺとりと張りつく。 宿の主人が持って来た毛布を何枚重ねても、歯の根ががちがちと音を立てる。それでも喉はカラカラで、水で喉を潤そうと、エドワードは蟲のようにひたすらベッドを這いずって、やっとの思いで身体を持ち上げた。それだけでも力尽きてしまいそうなほどの鈍重感。水を飲みたくともこれでは到底水を汲めそうにない。
重い瞼を僅かに持ち上げて見る自分の生身の手は、乾いて小さな皺を作っている。これは俺の手なのか。まるであのじいさんの手のようじゃねぇか……。
待てよ、じいさん?じいさんって、誰だった?…俺は誰だった、ここは何処だった?
記憶が今までの様々な出来事を順送りしていく。見たことや聞いたこと。
――― 思い出した、死んだんだよ。
死?誰が?俺が?母さんが…?母さん…!じいさん…誰…死…?
― あ、そうだ、あの時なんて言ってたっけ?空耳じゃなかった、確かに聞いた。
どうしてそんなことをいうのだろうとずっと思っていたんだ。なにかあったのかな…でもちゃんと思い出せねぇんだよ…
ちいさな澱のような何かがずっと頭の隅を翳めているのを思い出したのに、それが何なのかも分らない。何かを忘れているようなそれで足りているような。繰り返される迷路のような謎。エドワードは、うなされながら、痛む頭で、思考を繰り返すがどうしてもまとまらない…

ドアのほうから音がした。ノック音が二つほど。
もう一度ノックが聞こえ、二呼吸ほど間があって、ドアが開いた。誰かが半身を部屋に入れ、こちらを覗いた気配がした。鍵をかけていなかったのか…。
でも、エドワードの重い瞼はそれを見定める気も起きない。今は思考力も、いや、警戒心すら湧かない。 夢の中でふわふわと歩いているような現実味のない浮揚感がまつわりつく。
薄暗い部屋の古い床の上で、重そうな靴音がした。どうやら男のようだ。
「……!……、……………」
(なにかいってる)
自分に何かを尋ねているような感じだが、遠くで聞こえる音のようで、何を言っているのかは今の自分には分らない。聞こえていても頭がついていかない。
エドワードは難儀そうにゆるゆると声の方へと顔を傾けた。再び薄く目を開けると、ジャケットを着た男がぼんやりと見えた。
「…だ…れ…」
絞り出すようなエドワードの問いに、男の答えは無かった。



「―――大丈夫か? 随分酷い顔色だ……」
再び聞こえた声にエドワードは目を開けた。今度は言葉の意味がわかった。間近にハボックの顔があり、真面目な顔で自分を覗きこんでいる。
あれ、どうして少尉がここにいるのだろう…そんなエドワードの心を読んだかのように、ハボックは答える。
「朝、アルに会ってよ、お前のことを聞いたから、ちょっと覗きにきたんだけどよ。…なんか聞いたより相当悪そうじゃねぇのか。医者には?薬は?」
先日、バスルームで風邪を引いて、日ごろの寝不足が祟って一気に悪くなったんだっけ。 それでも、大したことないから図書館に行くと言ったら、アルに怒られたんだ。だったら独りで寝てるから、お前だけでも行ってこいよと行かしたんだっけ…
ハボックは、あれこれ身体の具合を尋ねるが、エドワードはまるで聞いていなかった。そんなことより、 さっき、いや、それともどの位前なのか分らないが、部屋を覗いて俺に話しかけた男はハボックだったのか…ハボックの顔を凝視しながらまとまらない頭で考える。
「おい、おい、マジ大丈夫か?病院に連れて行ってやろうか…」
薄目を開けて自分の顔を見つめるだけで、返事をしないエドワードを本気で心配しているようだ。声に焦りが混じっている。
「…なぁ…すこし…まえ…も…きた?…ここ…に…いた…だろ」
ぽつぽつと辛そうに落とす言葉。それだけ言うとまた目を閉じてしまった。
「いや、ついさっき来た。部屋はフロントに頼んで鍵…誰か来たのか」
返事の無いエドワードに、また眠ってしまったのだろうかと、ハボックは少年の瞼の上に手を翳して覗き込む。
「……………よく…わ…か…んねぇ……せ…なか…」
しばらく間があってようやく反応が戻ったと思ったら、まるで要領を得ない内容に、少尉は訝しげに首をひねる。熱に浮かされておかしな夢でも見たのだろう。水でも飲ませてやろうかとコップを探すと、サイドボードの上にあった。半分ほど水が入っている。少尉はエドワードの首を持ち上げてゆっくりと飲ませてやる。
「みず、いれ、て、くれて、あり、が、と…」
ああ、と適当に返事をして、ついでに部屋のヒーターのスイッチを押した。徐々に温まる空気の中で、少しは楽になったのか、エドワードは先程よりは和らいだ顔でウトウトし始めた。いつもこんな顔だったら可愛いのによ、あんまり無理するなよ、そう思いながら毛布を増やして額にタオルをのせてやった。ハボックは暫く様子を見ていたが、エドワードの呼吸が落ち着き始めたのを確かめると、安心したように部屋をそっと出て行った。

エドワードは夢現で思い出そうとしていた。あの人影は熱の所為の幻覚だったのか…顔は良く分らないが、後姿は見たように思ったけど、夢か。それからあの聞いた言葉は…思い出せない言葉は…空耳じゃなくて…大事なことじゃなかったか…



「カネは」
男の鋭い問いかけに、相手は黙って振込証書を見せる。それは銀行口座に振り込んだ額を指し示す。男は口の中で小さく数字を読むと、にんまりと酷薄そうに口端を上げた。
「今度は手渡しにしてもらおうか。…これが次の週の御予定だそうだ」
男はそういうと、数枚の綴じた書類を相手に投げた。慌てて飛びつくように書類を抱かかえるさまに、男は楽しげに嘲笑った。まるで蜜に集る蟻だぜ、こいつは。
「中身は信用していいんだな、そうでないと俺は…いや、なんであんたはこんな事を…だって裏切りだろう?」
書類を読み終えた相手が尋ねる。男は答えず、書類を素早く取り上げた。
「読んだか?なら、これは処分するぜ、俺にアシが着く前に。…信用するしないはアンタの勝手だがな」
それじゃ、俺はこれで、アンタの上に宜しくな。男はそう言うと部屋を出て行った。残された相手は、服の胸ポケットからメモを取り出し、汗ばんだ手で、先程の中身を記憶を確かめるように書き綴リ始めた。
その相手はメモを終えると部屋を出て、エレベータに乗った。途中の階で、清掃員が大きなダストボックスを押して乗り込んで来る。 ビルの営業終了後に清掃をするのだろうか、ご苦労なことだ。エレベーターを降りようとしたその時、後に感じた強い衝撃とともに身体がぐらりと崩れ落ちた。



そうだった、じいさんって、コンラッドのじいさんのことじゃないか…。
ようやく少し動くようになった頭で、エドワードは追憶する。そしてロイのことも。
…きっと悲しいだろうな。エドワードはふと思いつく。俺がバスルームで泣いていたみたいに大佐もどこかで泣くのだろうか。普段は尊大で自信家で皮肉たっぷりで、その姿は想像できないけれど。大人だけれど…でも…
あの手紙を渡されて最期を告げられた日。資料室から戻るロイの背中を、黙ってついて行った青い軍服の後姿をエドワードは思い出していた。
(…………)
熱の所為だろう、胸が少し痛くなった。
エドワードは目を閉じると、ふたたびうとうとと眠りについた。







*04/12/12 UP





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