24   一人       










赤い外套についている大きめのポケット。
エドワードの悩みは、寸法的には実に小さなもので、そこにすっぽりと難なく収まっている。だが存在感は実に大きく、現在、少年の思考回路の大部分を占有稼動させていた。
俺、さっきから何やってんだ…らしくねぇ…
昨日も歩いた河岸に座り込み、対岸の東方司令部の建物を見遣りながら、少年は考えている。手帳の包みを「これ、お礼」といって普通に差し出せば良いのだろう。無くしたものの代替品であり、資料の御礼。それに今回何くれとなく便宜を図ってもらっている。それだけ。しかし、自分の中では納得済みだが、あの大佐が何も言わずに黙って受け取る筈が無い。もし、今更、とか、何故、と訊かれたらどう言えば良いのだろう。俺は…そんなのいちいち説明なんかしたくねぇ。 だが、行き着くまでのその過程、何が引数でそれをどう処理すれば出てくるのか。男にすれば少年の持つ感情の関数箱の中身は見えないのだから。
そして出来るなら、その時に少しでいいから、コンラッドの話を聞きたいと言っては、いけないだろうか。訊いてみたい、俺の知らないじいさんのことを。…俺は一体大佐に何を求めているんだろう。だったら、むしろ等価交換とでも言えば良いのか。こんなに大袈裟なことなのか…いや、それ以前に、俺の悩みは大佐にはさしたる意味は無いのかもしれない。葛藤、逡巡、途惑い、躊躇い。
「…いっそ大佐に手紙でも書きゃいいのかよ!」
つい声が出た。空想に耽る少年に見えたのか、通る人が口元を押さえてくくっと笑って行く。ばつの悪さに頬を脹らませて立ち上がろうとしたエドワードの前に、大きな影が差した。途端に臭気が鼻を衝く。逆光で顔は直ぐには分らなかったが、浮浪者らしい。古いジャンバーを着て、拾い物であろう女物の外套を腰に巻き、右と左で色の異なる手袋を嵌め、冬だというのに男からは汗と体臭と汚物の混じった饐(す)えた臭気が漂っていた。垢で汚れた黒ずんだ顔の、両の眼が微動し、汚く緩んだ口元に、へ、へ、と下卑た笑いを浮かべながらエドワード近づいた。
(なんだよこいつ)
男が放つ臭気に顔をそむけて眉根を寄せ、エドワードは立ち去ろうとした。が、男が発した言葉は、エドワードの足をそこに縫い止めた。
「な、今、手紙って言ったよなぁ、坊主、難しい字、読めるのか?それに大佐とか、それって軍の偉いさんか?」
「は?…おっさん、何言ってんだよ」
浮浪者の突然の問いかけに、エドワードは表情を険しくさせる。手紙だの大佐だの軍だの、俺の独り言聞いてんじゃねぇよ。コイツ、頭がおかしいんじゃねぇのか。それでも男はエドワードの都合などお構いなしで続ける。
「坊主、読めんならこれ読んでくれよ。難しくてよくわかんねぇ」
垢で色の変わった首巻を掻き分け、汚れた服の胸元から紙を取り出し、エドワードに見せる。いや、それは元紙だったというべきであろう。大きく波打ち、その間に小さな波が出来て、皺だらけになっている。水に浸かっていたものを広げて乾かしたような状態の代物。これを読めと言うのか。確かに字は書いてあるが。
「何だよ、これ」
エドワードは強引なその態度に、むうっとなって浮浪者を睨みつけた。いきなり読めと突きつけられて、はいわかりましたと読めるかよ。人の悩みを邪魔しやがって。機嫌を一気に降下させたエドワードは、紙を取り上げ破り棄ててやろうとする。が、目に入ったのは。
(これは)
瞠目するエドワードの反応に、男は嬉しそうに笑いを大きくする。
「…ぁ、これってやっぱ値打ちがあるんだな? へへ、え?どうだ、坊主」
「おっさん、これ何処で手に入れた?…なぁ、教えてくれたら、俺、ちゃんと読むよ」
エドワードは咄嗟の判断の元、笑顔を見せてほんの少しだけ下手に出てやる。案の定、その態度に気を良くした浮浪者は、にやにやとしながらも得意げに喋り始めた。
川を指差しながらの男の話はこうだ。
「そこさ。何日か前の明け方にそこに引っ掛かった奴がいてよ。あ?生きてんか死んでんか、さぁな…何か握り締めてたから頂戴した。あ?ここは俺の縄張りで貰える物は貰うんだ…へへ、勿論財布もさぁ。そいつのその後は俺は知らねぇ。で、翌日、誰かがそいつの着てた服だけ引き上げて、軍とか何とか言ってて、俺はそれをコッソリと見てたさぁ。な、これ、関係ありそうだろ?だから軍に持ってけばカネ貰えると思ってよ…中身は知らないとさぁ…さ、なんて書いてあるのか読んでくれよ」
恥も良心も無く、字もまともに読めないほどの無知でも、小柄な少年なら御しやすいと思ったのか、男は下卑た笑いに浅ましさも付け足した。が、御しやすい筈の少年は、黙って紙片を見ながら考えている。その様子に、次第に苛々と焦れた男が、手を伸ばして紙片を取り上げようとした。その瞬間。エドワードは無言のままでひょいと身をかわし、ついでにバランスを崩した男の足を払って逃げ出した。背後から無様に転んだ浮浪者の罵声が響き渡る。
――― おいっ、返せ、クソガキ、ひとのもの盗りやがって、泥棒…チビのくせに!



暫く走って、浮浪者が追ってこないのを確かめると、エドワードは漸く足を止めた。目立たぬように路地に折れ、古い建物の壁に躯を預け、両手を膝に付いて身体を折り曲げるようにして、はあはあと乱れた荒い息を吐き続ける。冬の空気に少年の吐く息が次々と白くなって狭い空間に浮ぶ。エドワードは徐々に息を整えながら、浮浪者から奪った紙片を改めて見た。
(こいつは一応司令部に持って行って、経緯を話すべきなんだろうな)
エドワードは思索しながら無意識にポケットを探る。と、少年の目下の悩みが手に触れた。皮肉なものだぜ、あの浮浪者に考えごとの邪魔をされたと思ったら、今度は否が応でも司令部に行かなきゃならない。いや、むしろ理由が出来て願ったり叶ったりと云うべきか?俺はあの薄汚いおっさんに感謝すべきかよ。へっ、ホントにらしくねぇ…自嘲を含んだ薄笑いを浮かべながらも、エドワードは今度こそは背中をしゃんと伸ばして立った。





路地を出て司令部へと向かう。川の辺りは、あの浮浪者の縄張りといっていたっけ、見つかると面倒なので別の道を行こう。 エドワードはわざと遠回りをして司令部の裏手方面を目指した。そこは旧地区にほど近く、周辺は昔からの下町で庶民の住宅、アパート、小規模の商店が多い。そしてさらに奥には一部スラムとなった地区も含まれており、その傍を抜けなければならない。エドワードは用心深く歩き始めた。
旧市街地区の古い石畳の道。年代物の古びたアパート、小さなビル。それでもひとびとの生活は営まれている。そこには下町の喧騒がある。不景気で活気が減ったとは言え、開いている店もまだまだあり、買い物客や、立ち話の主婦、道端で遊ぶ子どもがそこかしこに見受けられる。そのありふれた日常の光景に、エドワードは安心すると同時に、仄かな郷愁を胸に覚えながら道を行く。と。少し離れた道向こうの小さなビルから男が出てきた。それは明らかに見知った顔の男だった。
(っ、ブレ…ダ少尉…? こんな所に…非番なのか?でも、まあ丁度いいや)
馴染みの軍部を見かけて、エドワードは安堵し声を掛けようとする。紙片のことも相談したい。が。少尉は鋭い眼で足早に裏路地へ抜けようとしている。その表情に普段との違和感を見たエドワードは声を掛けるのを止めた。そして無言で少尉の後を追いかける。

注意深く気付かれないように離れて、それでも見失わないように、エドワードは後に続く。ブレダは時折視線を左右にゆるりと傾けながら進んでいく。小太りだが、それでも訓練された軍人の足取り。油断も無駄もない。エドワードも足音に気をつけながら歩いて行く。
端境区にでた。噴水と常緑樹の植え込みのある公園に向かって更に歩を進める。人気の無いそこには、空いたベンチがいくつかあって、端の一つに男が座っていた。
「おっ」
手を上げて近づく。相手は服の衿を立てており、ここからは顔は見えない。二人の間で会話が始まったようだ。エドワードはベンチの背後に素早く回り込むと身を沈めた。ベンチの背後に立てられた、街の告知ボードに、エドワードの身長がちょうど上手く収まり、常緑樹の植え込みが程良い距離感を作った。…クソっ、情けないが、この小さなボードの裏側に人がいるとは思わないだろう。
と、途端に疚しさが湧き上がる。違和感に後をつけてきたものの、俺は、馴染みの少尉に何てことを。だって、これは盗み聞きそのものじゃないか。止せ、エドワード、悪趣味じゃねぇか――- それでも少年の勘が促す。そのまま続けろ、と。






「…さすがに疲れましたよ」
誰だ。丁寧な口調、友人じゃなくて相手は軍の人間なのか?でも何故わざわざここで?仕事の話なら司令部ですれば良い。いや、もしかしたら今日はこれが仕事なのか?エドワードは聞こえる距離を保ちながら考える。
「かなりの数が引っ掛かって、検…現在勾留中が10名近く、逮捕勾留、…も10名以上と…更に対象者は」
「まずは全部別件でぶち込んで強引に…全くたいしたもんだ」
なんだ、それ?なにか大きな事件でもあったのか?一体いつ?俺は図書館通いと、暫く寝込んでたし、最近のニュースは知らないけど…エドワードは最近の出来事を思い出そうとするが、自分は研究で頭が一杯になっていて、全く関心を持っていなかった。そして相手の声。誰なんだ。少尉とこういう話をする軍人…でも俺には心当たりは…それに別件って、別件逮捕のことか…それって…
漏れ聞こえる内容は、エドワードにはどうも話が見えない。しかし彼らの話は更に続く。
「――あ、先程新しい情報をやりました。司令部の例の予算のね」
これって、軍の情報を流したと言ったか…軍の情報?少尉が?司令部の人間じゃないか…何故?誰に? 初めの話と関係あるのか?それに相手の男は…
心の準備も無く、いきなり飛び込んできたこの内容はさっぱり訳が分らない。エドワードは戸惑う。
「…あれは際どい、俺も流したが。それはそうと…あれは誤認だったか」
「…それが死んでます。心神耗弱状態で勾留中に自殺…新米憲兵が…相当に手荒に尋問して追い詰めたらしくて」
「ああ、まったくまずいな」
男がちいっと舌打ちするのが聞こえた。
ゴニン?誤認のことか?追い詰めたって、自殺であれなんであれ、勾留中の容疑者を死なせてしまったとなると事は重大だろうが。それくらいは俺にも分る。…もしかして司令部が関係してるのか。
「軍関係従事者の実直な男だったそうで、確かええと、そう、レスター区住まいの。ドル…とかなんといったか」
思わず声を漏らしそうになってエドワードは慌てて自分の口を押さえる。あのひと、レスター区の、あのドルソンのことか。少年は瞠目したまま、迷路に入り込んだようで混乱する。あの、俺が聞いたあの言葉の意味は…それに誤認って…一体何が…いや、わかんねぇ、わかんねぇよ。
「…それから不明も」
「取引後、拘束するつもりで張ってたんですが…、ビル内から忽然と消えてしまって…そいつの服は先日川から上がったんですが…それに…」
「そうだったな…」
今の話は。これって、これって…この街で一体何が起こっているんだ…司令部は…大佐は…エドワードはパズルを組み立てるように必死になって考える。思索、熟考、推考…繰り返し断片を繋ぎ、ほどき、ふたたび繋ぐ。
「……はさすがに」
エドワードは顔を上げる。途切れた会話は再び繋がれ、少年の思考は中断された。エドワードはもはや一言も聞き漏らすまいと会話に全神経を集中させた。
「何も知らないあれと老人を利用したのには…」
…利用って、誰かを騙して使ったのか。大佐、やっぱりこれはアンタも関係してるのか?
猜疑と不安が暗雲のように膨れ上がり、心臓がどくどくと早鐘を打つ。
「ここを離れる為の良い理由が出来たと、笑いながらそうちらりと…傍目にはお気に入りの少年を連れての個人的な旅行ですから」
その言葉に思い当たるものがあるエドワードははっとする。
「あの南部の御老人が死ぬのを見越してだったか…恩義ある老将軍も利用…」
え?今、何て言った?あれ?俺の聞き間違い?旅行って?少年?俺?あの?それから、え、と、確か、そう、南部の、将軍…
  それって、じいさん?コン…ラッ…ド?どういうことだ…  少年がそれを認識するまでたっぷり数秒。
――コンラッドヲリヨウシタ。
 突然風がぴゅうと吹いた。
(ひッ…!)
今度こそ声が漏れた。だが幸いにも、冬の風が木々の梢を揺らしながら、甲高い唸りを立てて過ぎていく。少年の小さな悲鳴は彼らの耳には届かない。
「…風が出てきた。おい、場所を変えよう、寒すぎるぜ。なんせ俺は長期療養中なんだからな」
男が軽く笑いながら曇天となった空を見上げると、少尉も立ち上がり、二人は公園を後にした。
植え込みに残された少年は、動くことを忘れてしまったかのように微動だにしない。
風が嘲笑うかのように、彼を掠めて過ぎて行った。




乾いた古煉瓦の舗道を踏み、寒さに襟元を手で寄せながら、男はふと思い出したように訊ねる。
「そういえば彼は監視対象だったな」
「いえ、時々様子を視ていた程度です。最近臥せっているらしくて、それからは対象を解きました」
「…勘と頭が良すぎるもの不幸だな、あの錬金術師は。可哀想に。」
何かを思い出すような遠い目を見せると、煙草を取り出し火を付けた。その横で少尉が己の確認をするかのように小さくごちる。
「――我々は付いて行くだけですから」





鉛色の空は厚みを増して耐え難い程に重苦しく、冷々たる空気を放ってそれぞれの頭上に在った。









*05/01/09 UP





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