30   束 縛       












灰色の壁が続く。それはところどころ剥がれ落ちて、下地の漆喰が剥き出しになり、古びた残塗を晒していた。床は打ちっぱなしのコンクリートと強化硬質煉瓦が使用され、靴音をやたら響かせる造りとなっている。今、床の効果通り、軍靴を響かせながら男が歩いて行く。甲高く幾重にも反響した音は、今度は壁を伝って天井へと上がり、そして、背後に落ちる。―― まるで自分の足音に追いかけられているようだ。
そして入口から何重にも設けられた頑丈な鉄格子。そこを守る兵士たちは、黒髪の男の姿を認めると、上敬礼を寄越して無言で鉄格子を開き、そして閉める。
鉄格子が開かれると、ぎぎぃと聞こえるあの独特の軋み音は、安堵感をもたらす音だ。なのに、鉄格子が閉められる時の、あのがしゃんという冷たい金属音を背後で聞く度に、言いようの無い焦りと不安感がじわじわと湧き上がる。
別に罪を犯した訳じゃない。収監される訳でもない。壊れてしまった訳でもない。それなのにこの音は、人間の内奥の不安を掻き立てる音だ。

―― 自分はこのままここから出られないのではないか?


靴音が変わった。ここからは警備の方法が違うからだ。建物の最奥部、それでも相当に広い面積を充ててある。係りの詰め所と管理室は全て強化ガラス張りで、皆無言で業務をこなしている。ここにはお互いのプライバシーなど無に等しい。辛うじてプライバシーを保っているのはとシャワー室とトイレ位だろう。
窓が殆んど無い所為か、何処かしこも照明は異様なほど明るい。しかし空調は強制的に循環されて、清浄を保ってはいるが、その人工的な明るさと、醸す雰囲気の重苦しさは、滑稽なほど対照的だと思えた。
靴音を聞き覚えたのだろうか、係りの兵が慌てて部屋から出迎える。
「いや、いい…」
「………」
ここに来るのは何日ぶりだったか?前に来たのはいつだったのか…それすらも思い出せない。
やがて男は歩を止めた。私の靴音が止まったのは詰め所は承知だろう。この床はそういう造りなのだから。
今度は格子の無い重たげな鉄製の扉が男の眼前にあった。
「…開けろ」
やはり兵士は無言で扉を開ける。男はひとり扉をくぐると、後ろ手で閉めた。そして胸元から取り出した鍵で、壁際のカバーを開き、スイッチを押した。これでいい。これでこの先は音の無い盲いた世界となる。

先程よりは一回り細い鉄格子になった。ここには重々しいものは無かった。男は格子扉を自分で開くと「部屋」に入る。部屋の中ほどからは、更に格子で仕切られた部屋が続いていた。部屋にはベッドと机。片隅にはガラス張りの小部屋が続き、そこにはシャワーと洗面と便器が設置されている。鉄格子の部屋には似つかわしくないほど、小ざっぱりと明るい雰囲気であった。
男は、その部屋の奥で、こちらに背中を向けている「住人」の姿を確認した。
「………」
住人は動く様子を見せない。壁の方を向いて椅子に掛けている。癖の無い髪の毛が背中に真っ直ぐに落ちている。男はただその背中を見ている。時間が流れ、やがて、沈黙を破ったのは住人の方からだった。
「37日だ」
「……」
男は何も言わない。ただ、己の心を読まれたかのような、背中を向けたままの住人の言葉に不快げに眉根を寄せた。
「そんな顔をするな…似合わない。が、煽情的でもある」
背中を向けたままで今度は愉しげな笑いを含んでいる。つと、住人の手が動いて、伸びた髪をさらりとかきあげた。だがその指先の動きは何処となく不自然であった。更に独り言は続く。
「…困っているのだろう?だからここに来るのだ。…違うか?…」
男は黙って立っている。
「可哀相に。自分の属する世界に、自分が真実だと信じている世界に、縛られているね。…己の思考すらも世界の為に取り繕わなければならない。おや…」
男は今度は椅子を一つ引き寄せると腰掛けた。住人の背中と一直線に重なるかのような位置。
「…私に気配を読まれない為に、真後ろに来るのか…どうした、らしくない」
「………」
「ふふ、だったら何故ここに来るのだ?答えを探しに来ているのだろうに?」
ここに足を踏み入れると無感覚に陥る。外部とは遮断された空間で、外の世界の光も、音も、匂いも、季節も、その日の天気すらも分らない。いや、日々の流れだって止まってしまっているのではないのか。
ここでは存在なんて肉を持たない、ただ精神のみが閉ざされた空間を浮遊するだけだ…
「…部下を連れずにひとりで来るのは、君の深層心理が私を求めているからだ…知られたくないのだろう…?」
「…そうだ」
男はようやく言葉を落とした。それを聞いて住人はくつと笑う。
「…ああ、ここで初めて口をきいたね。どうだ、閉じ込められてはいても、ここには私の思考を阻むものは何一つ無い。本当は、私のほうが君よりはるかに自由だろう?」
男は目を瞑って極小の息を吐く。その通りかも知れない。私は何故かここに来てはこの住人の独り言を聞いている。遮音装置で会話は他の誰も聴くことが出来なくしておいた。そしてここの様子を視ることも。監視係でさえも。
・・・だが。私が彼に求めているのは。
すると、またもや心を読んだかのように住人が問い掛ける。
「そうれはそうと…何故始末しない…」
「用がある・・・」
そうだ、彼にはまだ用がある。彼が生きていることが重要なのだ。そうでないと見えない均衡が崩れてしまうから。性急に事を運びたがる連中に嗅ぎ付かれない為に、守る為に、わざわざここに収めているのだから。
「君は飼い殺しが趣味なのか?…飼っているのは私だけか?いや、見えない鎖で繋いでいるのだろうよ・・・」
愉しそうな声。だが、住人の問いには答えずに、男は立ち上がると、部屋を後にした。


昨日今日、接触する人間が次々とめまぐるしく変わる。特に中央の幹部たち、こいつらは私に無理難題しか持ってこない。男は先程の住人の言葉を思い出す。…君は己の世界に縛られているね? そうだ、その通りだ。いつの頃からか。肩書きが己を、状況を解くものにはなり得ず、上がるほどに段々ときつくなる枷。











05/02/26 UP





back  NOVEL TOPへ  next


[PR]動画