31   体 温       












「・・・これでいい」
常緑の低木と小川に囲まれたちいさな枯地で、満足気な独り言が落とされる。そのひとは、両の掌をぱんぱんとうちつけて、服についた土をはたくと、ゆっくりと立ち上がった。



街を外れて暫く歩くと緩やかな丘陵地になる。 車と人がごくたまにしかすれ違わない砂利道を行くと、白いフェンスに囲まれた場所が現れ始める。広大な敷地に広がる大木や木立ちは森林の様相を見せていた。遠目に見えるのは、数え切れない灰色の石碑。それは冬枯れの草地に集う、物言わぬひとたちの標(しるし)であった。
――― ‘ ARMY CEMETERY ’  軍人墓地。
ここは定年退役軍人、戦没者、殉職者の眠る場所だった。その中でも、FOR GENERAL AREA と書かれた区域。そこを目指して歩くひとつの人影があった。目的の標の前で足を止める。
JHON=F=CONRADD for Lieutenant General 、そう刻まれた墓標に呼びかけた。
「ジョン…」
やがて、墓標語りが終わったのだろうか、何気なく足元に落とされた視線が、それに気付いた。まだ冬枯れの草地に、淡い紫の蕾を付けた菫。これから咲くであろう小さな植物の根元には、新しく掘り返された跡があり、明らかに人手に拠って、墓標に寄り添うように植えられていた。



午後を過ぎるとすぐに迫っていた黄昏は、ここ数日のうちにその速度を落としたようだった。柔らかな陽光のなか、日毎に長くなる昼間の時間は緩やかに流れていく。
古い屋敷の扉を開けようとしていた夫人はポーチにちいさな包みを見つけた。それは古新聞で包まれた花束。いや、花束というには相応しくなく、芽吹き始めた木々の枝のなかに少量の冬の花や蕾を交えたもので、野にあるものを摘んできたという印象だった。
「まあ」
夫人は包みを大きく広げてみる。それらは根元を見たことがあるような赤い革紐で束ねてあり、どこなく不器用で稚拙なものがあった。考え込んでいた夫人は、やがて思い当たったらしい。
「エド…?」
さらに新聞紙に挟まっていた葉っぱを摘み上げて目を見開いた。それは一枚の菫の葉。
(・・・あれもあなたが)
そしてもしやと思い、庭に向かって彼女は呼びかけた。
「…エド、エドワード!居ないの、居るんでしょう?…出てきて!」
返事は無く、気配も無い。暫く庭を見つめていた夫人は、淋しそうに肩を落とした。だが、今日、こうして花や菫が添えてあったのは、少年が立ち寄ったしるしに他ならない。あれから少年も男もどうしているのだろうと思う。コンラッドの死。命あるうちにと、少年と男に夫はそれぞれの手紙を書き、自分も同様に書き添えて、そして死後、夫の望みどおりにそれを男に送った。男からはお悔やみの手紙と花が届いた。しかし、少年からは返事が何もなくてずっと気に掛けていた。元気で旅をしているのだろうか、と。
彼らが普通に訪ねてこないのは何か事情でも出来たのだろうか。特に黒髪の男を。夫の部下だったあの青年は、数年の間にファーストネームで呼び合う友のような、時には親子のような関係になったと思っていた。それなのに、あの夏の日を限りに全く姿を、喪中見舞いの手紙を最後に、音信さえも途絶えていた。
(ロイ……)



「いや、こんな僻地の支所視察に来て、君と遭うとは思わなかったよ、驚いたね…」
ここ南方支所では、男が、幹部上級将校用の休息室で話し掛けられていた。それは、中央の例の幹部だった。
「私のほうこそ驚きです…」
男の言葉は、心からの正直な感想だった。南部にある技術研究所を訪れ、ここには資料を受け取りに立ち寄っただけなのに。まさかここでまたこの幹部に出会うとは。
「急病になった同僚の代理でね、急遽視察する羽目になったのだよ。予定変更のお蔭でここの司令官とは余り話せなかったが?」
苦笑いを交えながらも、穏やかな態度を崩さないこの幹部は、更に嬉しそうに付け足した。
「君とはもっとゆっくり話がしたいと思っていたのだよ、これはヴァルハラのお導きかね?」
古代の戦闘神話を持ち出して微笑んでいる。どうやらこの幹部は、男のことを個人的に気に入っているらしい。しかし、男は幹部の言葉に思考を詰まらせていた。今、ここで例の査定委員会の返答を迫られたら大いに困るではないか。なぜなら、受諾の是非は、忙しくてまだ十分に考えられていなかったからだ。焦る男に更に言葉が掛かる。
「どうだろう…もう用が済んだのなら、少し私に付き合ってはくれないかね?軽く飲みたいのだが?」
「・・・は」
幹部は促すように男の背中に手を触れると部屋を出る。 支所では、代理の中央の幹部と、東方本部の司令官をどうもてなして良いか判らず戸惑っていたが、二人揃って腰を上げてくれたことにほっと胸を撫で下ろした。


「ここで良いだろう、たまにはこういう処も面白そうだ…」
男と幹部は、適当に探し当てた街のパブに来ていた。思ったより小奇麗な店内は、夕刻の客で賑わっていた。既に青い軍服の士官や兵士が数人飲んでおり、入ってきた彼らの階級章に驚く者もちらりと見えた。が、ここではお互いプライベートだ。目が合ったら略敬礼を軽く手だけで交わす気楽さだった。奥の空いた席を見つけると、幹部はそこで水割りを注文した。男はふと思った。
―― 良い席だ。ここからは周りが見渡せるが、向こうからは見え難い。適当に賑わう店内では、更に壁際だと会話も漏れ難い。
軍幹部なのだから当然といえば当然だが、上品で穏やかな外見と違って案外切れ者なのかもしれない。
(…そうか、似ているのかもしれない…)
「マスタング君…どうかしたのかね?」
無礼にもつい幹部の前で考え事を。が、意外にも笑いを含んだ優しい声であった。
グラスを傾けながら、軍務の話となったが、幹部にありがちな、頭ごなしの問い質すような口調ではなかった。軽い話も時折交えながら、そのうち話題は先の司令官会議の報告書の内容に触れた。報告書に無い対過激派の部分を自ら補足するように、東部の現状を聞きながら、幹部は深々と頷く。
「東方は君のお蔭で平穏と秩序を保っているのだろう、やはり君は優秀だ」
優秀という言葉は今まで幾度となく聞いてきた。だから男には、今更どうということのない、平凡な響きを持つ言葉の筈だった。だが。この幹部から発せられると違うように感じる。あの時を思うと、他の幹部にも彼は少なからず影響力があるのではないか、だったら私はこの幹部に近付くのが良いのだろうか…。男は素早く思考を張り巡らせる。
「ああ、その後のテロ対策として君の案は?…もし何かあったら力を貸そう。いや、君には必要ないかもしれないがね…」
男は先程からの、幹部の現状への問いかけに、とりあえずは差し障りの無い内容のみを、巧みに答えていた。だが、実は男は幹部への態度を決めかね、そして考えあぐねてもいた。彼は穏やかな人物で、そして頭が良いというのは分った。しかし、そんな幹部に、何故自分が気に入られたのかが分らない。自分は中央幹部にとっては、生意気な黒髪の若造ではなかったのか?幹部と居る時には、極力思考や感情を表に出さないようにしてきたのだが、この幹部と居ると出てしまったらしい。幹部は男の顔を凝視している。…しまった。
幹部は男の心を読んだかのように告げる。
「何か変に思わせてしまったのだろうか。いや、すまない。君の顔をじろじろ見て失礼だったよ…つい」
すまないと呟き、幹部は伏目がちになると静かに語った。
「つい…。面影が…。何となく似ているものだから・・その、歳の離れた弟が居て…いや、居た」
「弟さん、ですか…」
弟に似ている?私が?それに、居た、とはどういうことなのか。幹部は独り言のように続ける。
「居たんだ…優秀で…その、死んだのだが」
予想だにしなかった幹部の語りに男は言葉を失った。一瞬、何と返事をしたら良いのか分らなくなり、不意に目を逸らした若い男に幹部は何故か微笑んだ。
「いや、目を逸らすのは当たり前だ。死んだ人間に似てると言われて困るのは至極当然だ…」
幹部はテーブルの上の男の手に指先で触れると、本当に済まなかった、どうか忘れてくれたまえ、と苦笑を添えて軽く頭を下げた。男はただ黙って頷いた。


その日は男の心配を余所に、査定委員会の話は出なかった。もしかしたらあの幹部はこれ以上自分を困らせまいと気遣いをしていたのかもしれない。ロイはそう思った。
そして初老の男が触れた指先の感触を思い出していた。あれは、あの感触は。遠い記憶を辿るようにロイは目を瞑った。更に、自分が触れようとした指先を拒絶した少年のことも。自分が少年に触れた記憶は何時だった?あれだ、鉄橋で掴んだ彼の細い手しか無かった筈だ。しかし、男にはその指先の温もりはどうしても思い出せなかった。
―― そうだった、彼は私を拒んだのだ。あの時も…あの時…! 
幹部が死者の記憶を自分に重ねたことを、男は責めることが出来よう筈も無かった。いや、幹部と自分の間にはそんな感傷は必要無かった。理由はどうあれ彼は私を気に入っている、そして私も彼を。後ろ盾に成り得る幹部として。進んで往く為に。

男はただ、嘲笑った。自分を。




その頃。男の自宅前には、人影が佇んでいた。








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