32  好 き?       ACT1. Teller












鈍色の空のなかに縹色の空がゆるゆると見え始める。しばらくすると、今度はそれは薄紫へと変わり、まだ冷気が濃く残る早春の街を、静かに包み込んでいた色は、ようやく麻色へとなった。忙しげに羽ばたく鳥の声が透明な街に響く。
ああ、また朝が来た。また一日を始めねばならない。どうしてだろうか、自分はいつの頃からか、夜明けが嫌いになった。そう、普通の人間ならば誰もが、新しい朝がくることは心の奥底で、本能で待ち望んでいるのではないか?動物だって本能で朝になったら生命を輝かせるではないか。なのに。
やがて東の空を朱に染め上げながら広がる朝焼け。美しい一日の予感。朱色の空から姿を現す金色の太陽。白く眩しい黄金の輝きは、迷う闇を駆逐する。ロイはその眩しさに腕を翳しながら歩いていた。真っ直ぐな黄金の太陽。なんだった、これは。ああそうか……。男は同じ色の髪と双眸を持つ少年を思い出す。
「…エド…ワード…」
立ち止まり、ふと零れ落ちた自分の呟きに男は気付く。
…そうだ、彼の名はエドワードだった…




「あ、大佐、お帰りなさい・・・って、昨日はそのまま南部で?いや、それにしちゃ随分お早いご出勤ですね」
そのまま出向いた司令部で、少尉が男の姿を認めて声をかけた。少尉はぼざぼざ頭を掻きながら煙草を咥えている。ソファにでも寝そべっていたのか、青い軍服の腰周りは皺だらけになっていた。態度はデカイが勤勉な部下に男は彼が夜勤だったことを思いだした。
「…ああ、早くに着いたので。お前はもう上がりなのか。ご苦労だったな」
男は部下が抱えている資料の束に目をやる。過去にシティで検挙された容疑者と洗い出された犯罪口座のリスト、そして新たに例の捜査で引掛かった容疑者が別資料として密かに加えられている。少尉は夜勤の合間にこれを読んでいたのだ。上官の視線に気付いた少尉は、目で合図して、人気の無い休憩室へと向かう。
はい、と少尉は上官にコーヒーを差し出しながら答える。
「ずっと言われた通りにしてますや。対象機関を当たってますけど、なんせ、大手から中小まで相当数なもんで…ですがあまりうろちょろするのも憚られて…」
確かにそうだ。極秘の、しかもロイの一存で行われており、ごく少数の部下のみがその目的を知っている、別件逮捕の隠れ蓑を被せた捜査で、軍が堂々と聞き込みなど出来る筈が無い。此の点、少尉は有能で、まず馴染みの金融屋や情報屋に、それとなく聞き込みを入れているらしい。
少尉は一向に終わりの見えない作業に、はあ、といくばくかのためいきと、そして思い出したように質問をおとす。
「ねぇ、大佐、彼はどうしてんです?肝心のモンは彼が握ってますぜ、きっと」
こんどは男はそれには答えずに、付け足すように外して言う。
「…私が心当たりをあたってみる」


「それで?何をお望みなのでしょうか?…いくらあなたのご依頼といえど、いかなる理由があろうと、情報は開示できないのです。それがこの世界の信用なのです」
表の喧騒から遮断された奥の一室。華美ではないが、素材や造りが、選び抜かれた逸材であることを感じさせる調度品。その応接室でロイは一人の男と向かい合っていた。品の良い風体であるが、表と裏の世界の両方の顔を持つ男。情報屋とも通じている、ロイより少し年上らしいこの男も、己の生きる世界ではやり手であることは、鋭い眼光から見て取れた。男は上品だが、きっぱりとした口調で東方司令官の依頼を断っている。
ロイが黙って腰を上げようとした時、男は先ほどの上品な口調とは打って変わって、目付きまでも変えながら告げた。
「なあ、ロイさん、これはいちおう友人として言ってんですけどね、あんた何に首を突っ込んでるんです?俺のところで止まっている時点ではいいですが、漏れるとややこしいですぜ。…悪いけど、俺はこれ以上は聞かなかったことにしますんで」
「・…わかった。済まなかった」
ロイはそれ以上は言わずに、上着を手にすると事務所を出た。ここに来る前に司令部で私服に着替えてきた男の風体は、誰も東方司令部司令官本人だとは思わないだろう。整った顔立ちだが、軍服を脱いだ姿はごく普通の若い男にしか見えない。
雑踏に揉まれながら、様々な店舗が軒を連ねる賑わう大通りを歩いていると、ふと看板文字がロイの目に入った。立ち止まり、見上げながら記憶を辿る。
「…この銀行は」
そうか、この銀行は、いつだったか、少年に頼まれて保証人になってやった銀行だ。彼に頼み事をされたことなど後にも先にもあれきりだったかと思う。後見人らしいことをしてやったのもそれきりだった。彼は、私の求めにはいつも十分なものを返してくるが、彼から頼むことなど初めてだった。
――いや、それだって、結局私は、彼を利用したのに過ぎなかったのではないか。
ロイは銀行に足を踏み入れた。行内は多くの人たちで賑わっている。もしや、と思う心が男の視線を忙しく動かせるが、だがそのなかに男の求める姿は無い。
(そう都合よく彼がここに居るはずはないのに)
やはりまだ何処かの旅の空に居るのか。当たり前だ。いくらなんでもこの街に戻っているなら、いやでも私のところに顔を出さない訳にはいかないのだから。司令部の誰からもそういう話は聞いていないし、相変わらず郵便で報告が届いているではないか。きちんと顔を出せと交換にでも伝言させることはできる。しかし今はこのままが良い。だって、そうだ、まだ終わっては居ないのだから。いや、思ったより難航している。自分の無能さを焦りとして感じる昨今ではないか。私は、彼にはきっと会いたくないのだ…。
男は視線を落としてふふ、と独り口の端で笑う。今日は朝から少年のことをよく思い出す。そうか、あれから遠ざかっていた南部だったが、軍務で訪れて例の幹部に出遭った所為か。南部の空気を吸ったからか・・つぎつぎとあのときのことが脳裏に浮んでゆく。
「―― 失礼ですが、あの、もしや、マスタング様?…マスタング司令官では?」
呼ばれた声にそちらを見遣ると、役付きらしき男が立っていた。…そういえばこの銀行は自分も利用したことがあったが、声を掛けられるほどではないはずだ。東方司令部の司令官としては、街の名士として集まりに参加したこともあったが、それにしては気億が無い。しかも今日は私服だし、ふらりと覗いただけだ。ロイは訝しげな顔になった。
「……マスタングは私ですが、失礼ですがご面識がありましたか?」
警戒心を表して軍人の顔になった男に、中年の男は穏やかな笑みを向けた。
「いえ、実は、あるひとからあなたの御人相を伺ったことがありまして、それでついお声をかけてしまいました。非礼をお許しください」
思いも拠らない言葉に、男の黒い双眸が動き始めた。
「…・あるひと?私の事を?」
役付きはここで立ち話も何ですからと、ロイを空いた部屋に招きいれ、ソファを勧める。
「東方司令部の司令官でいらっしゃる。・・・いや、あまりにもそのとおりだったので。失礼いたしました。」
何の事やら合点がゆかぬ、という顔をしている若き司令官に、不躾に声をかけた非礼を再度詫びながら、男は話し始めた。
――そう、あれは去年の秋頃でしたか。一人の少年が貸金庫を作りたいと言ってきた。銀時計を見せられたが、あまりにも幼い少年が一人でやってきたのに少々の不審を持ち、彼のいう口座を調べてみたのだが、確かに名前は合致した。だが金庫には保証人が必要だというと、翌日直ぐに書類を揃えて持ってきたのだ。驚いたことに司令官の役職保証人署名で。
「これだけ揃っているのですから十分なのですが、ちょっとした好奇心と確認の為に、その少年にこの保証人はどんな人かと訊ねた訳ですよ」
役付きは申し訳ないというように苦笑いを見せるが、それでも不愉快でないのは、ロイもこの意外な話に興味を持ったからだ。まさか、想像もしなかった。彼は、あの少年は、一体私のことをどう語ったのだろう。
―――そう、あの金髪の小さな少年はあなたは後見人だと言っていましてね。初めは渋々と口が重かったのですが、あなたの名前と階級、役職、を言い終わると、今度はあなたの風貌について語ってくれましたよ。ええ、確か、背はそんなに高くないけど、黒髪で黒い瞳で、歳の割には、大人の癖に変に若く見える人だ。そんな風にね。――
自分の顔を見て、失礼ですが、いや、本当にお若くていらっしゃると微笑む役付きに、男は思わず自分の顔を撫でた。話は更に続く。
――― その語り口が、実際に何度も会って本当に良く見ている、と感じられましたのでね、私はその子の話を信用して、快く開設手続きを取らして貰いましたよ。何というのですか、その子の語りには信頼のようなものが見え隠れしてましてね。印象に残ったのです。いや、わたしも、この仕事でいろんな人にお会いするので、真偽だけで無く、そういう機微も分かるようになってくるのですよ。きっとお会いしたらすぐ判るのではないかと。で、彼の話から、私の想像したマスタング司令官の風貌は、図らずも合っていた訳です。―――
役付きはそう言って話を括った。


道行く男は少なからず驚いていた。正確には、驚いたというよりは、心が揺らいでいたと言うべきだろうか。
必要上とは言え、少年が身内以外の他人に私を語るとは思わなかった。しかも役付きの話では彼は私に信頼を抱いているという。まさか。君が私に。男は思い返していた。……確かに。彼は部下で私は上官で後見人も兼ねている。傍目には信頼があっても当然の関係だが、私と彼とは世間一般の間柄とは違う。だいたい、私は彼を・・・彼をこの世界に引っ張ったのは何の為だったか…利用と目的。端的に言えば取引だ。利益と手段が一致しただけではないか。いや、私のほうがより多く果たしているのではないのか?明らかに彼を利用しているのだから。男は眉を顰める。…嫌なことを思い出してしまった。ああ、あの顔だ。一体なんだ、この感覚は。
奥底から湧き上がる得体の知れぬ感情。己自身にも理解出来ない、不快感にも似たざわつきにロイは大きくため息を落とした。
気が付くともう自宅前に辿り付いていた。
今日はシャワーを浴びてもう眠ろう。昨夜、幹部に遅くまで付き合ってしまい、結局列車には間に合わなかった。軍の宿舎に泊まり、朝一番で戻ってきたが疲れた。少年のことも、もう何も考えたく無い。疲労で判断も推論も何も出来なくなりそうだ。何かあったら有能な副官が私を叩き起こすだろう…
鍵をかちゃりとちいさくいわせて男は中に入る。が、室内には何か違和感を感じる気配が漂っていた。
(…………)
ロイは上着で隠したホルダーにそっと手を伸ばすと身構え、足音を忍ばせてリビングの扉を開けた。
そこにはソファに長々と寝るひとりの人物。寝室から勝手に持ち出したのか、大柄な人物は毛布に包まってぐっすり寝入っており、時折いびきまで混じっているではないか。毛布の隙間から明るい栗毛色の髪が跳ねるように飛び出している。ロイは注意深く近付き、その人物を見定めると、目を剥いた。
「…お前ッ…!」
ロイの声に反応したのか、いびきが止んだ。毛布が内側から動き、栗毛色の髪に縁取られた、見覚えのある陽気な風貌が現れた。彼にとっては狭いソファの上でもぞもぞと動くと、両の手を広げて躯を伸ばした。そして傍らに立つ黒髪の男を認めると、人懐っこくにっこりと笑いかけた。
「…や、お帰りなさい。べっぴんさん」
「貴様…ラ、ランド!」
呆れ顔を通り越して、ロイの声には僅かに怒気が含まれていた。












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