本  能         ACT 3. 不 寝 者







「・・・・た い さ」
消え入りそうな声で、エドワードは男の名を言った。普段の負けず嫌いの彼が金色の睫毛を伏せがちにして、躊躇いと途惑いと、間近に顔を付き合わせた、思い掛けない再会に恥じ入るような、そんな感情の混じった小さな声だった。
「・・・た、・・・ い  さ」
エドワードは消え入りそうな掠れた声で、もう一度男を呼んだ。いつに無く弱弱しさを感じる彼の声。
凛と張った自信に溢れたあの綺麗な力強い声のトーンは、冬の細い枯れの枝のように、ぽきんと音を立てて、折れてしまいそうなほど儚げに聞こえた。
そんな思いを巡らせながら、再度ロイはエドワードに問い掛ける。
「なぜ・・・君が・・・ここに・・・いるんだ・・・」
それは自分自身への問いかけでもあったが、座っていたパイプ椅子をさらにベッドに寄せると、ロイは、先程よりは落ち着いた口調で、エドワードに尋ねた。エドワードは格段に頼り無げに見えた。額の白いガーゼから覗いている火傷は、彼の幼いが端正な肌を赤くしていて、それが痛々しく見えた。髪に付いた煤や灰くずも、まだ焼け出された人間の生々しい様相を表して見せた。
「どうして・・・?・・・それに・・・きみ一人か。弟は、アルフォンスは、どうしたんだね。君たちが一緒じゃないなんて」
こほ、と軽く咳を払うとそう付け加えた。鋼の錬金術師で通っている彼がこんな所で身元確認の出来ない不審者となっていることが、ロイは腑に落ちなかった。憲兵たちはこの子のことを知らなかった者だったのか。身元確認のさせるのに、人員不足だからと新米兵を使いすぎたのかもしれない。副官によく言っておかなくては。いやそれよりも。彼がここにいることはまぎれも無い事実だ。
「・・・名乗れば知っているものも多い筈だし、何より銀時計を見せればよかっただろうに」
口調は落ちいているものの、内心では些かのゆらぎがあったがそれを声にも態度にも出さずに訊ねる。しかしエドワードは、はじめに「たいさ」といったきり口を噤んでいる。整った顔に時折感情をのせて眉間に皺を寄せ、少年は黙っている。
「…頭が痛むのか?大丈夫か・・・おい?」
ロイは少年の顔を覗き込むように椅子から腰を浮かせた。その途端、エドワードは、毛布を引っ張ると、自分の顔を隠してしまった。
「・・・どうしたんだ・・・」
エドワードの挙動不審に、その理由が分からぬといった呈で、ロイは、なおも少年の顔を覗き込もうとした。それでも。男が毛布の端に手をかけて覗き込もうとすれば、少年は毛布を離すまいと力をいれて、引っ張り合いのようになり、結局はエドワードは、毛布を頭から被ったままだった。
ロイは仕方なく諦めて、パイプ椅子に腰を沈めると、淡々と語り始めた。
「・・・この火事はかなりの大火で、街の中心部の金融街も焼けている。現在我々当方司令部では、昨日の火事で焼きだされた者の身元確認をしているのだ。僅かでもテロの可能性を否定できない以上はやむをえん。君の所にも憲兵か兵士が来た筈だが、どうしてその時、『鋼の錬金術師 エドワード・エルリック』と名乗らなかったのだ?報告によると、きみは身元の確認はおろか、名乗るのをすら拒んだそうじゃないか。何故だ。何か障りでもあるのかね。それとも、いや、君に限ってと思うが、昨夜の事件に何らかの関わりがあるのか?・・・黙っていては周りにそう取られても仕方あるまいよ、鋼の。もちろん私個人としてはきみを信頼しているが、今回の経緯と、そしてもし火事について何か知っているなら、話す気になってくれると大変ありがたいのだが」
男の辛抱強い言いきかせにもエドワードは黙っている。
暫く沈黙が流れた。部屋の中は男と少年と。そして遠くから聞こえる木霊にも似た兵士たちのざわめき。午後の日差しは長い。

小一時間が過ぎた。

少年が口を開くのを、男はまだ根気よく待っていた。椅子の上で体を半折りにし、開いた膝の上に組んだ両の手を乗せて座っていた。男の唇から嘆息が漏れ落ち、それが長い前髪をふわっと持ち上げた。
とうとうついに諦めたのか、男が腰を上げようとしたとき。
エドワードが、半身を動かしてゆるりと起きあがると、ようやく声を出した。自分自身に言いきかせるように。
「・・・東部には、その、査定の資料を取りに着たんだよ・・。それで、いつもの宿に泊まって、前に預けた資料の、貸金庫の文献を引き取るための、書類を書いてたら火事に合ったんだ。・・・っ初めは外が騒がしい位にしか思わなくて。最近雪も雨も降らないし、空気がが乾燥してたからだろうけど、火の回りが早くて、それで、俺は焔を閉じ込めようと、あちこちに壁や壕を錬金術で作った。・・・宿だけでなく、一晩中、町じゅう走り回って、火を食い止めようとしたんだけど・・・・自分の荷物もなくしそうになって、たいした事は無いけど、火傷して、煙を吸い込んで一時は喋れなかったんだ。疲労困憊して病院に手当てで収容された所に憲兵がきて、なにやら調べようとしてたが、俺はその時は喋れなかったんだ。疲れ果てて、億劫で。包帯とかガーゼとか張られてたし・・・ともかく疲れて果ててたんだ。そしてまた目が覚めたら、この医療収監所にいて、傍らにアンタがいたんだ。…どうなってるかって・・・・俺だって・・・」
煙で喉をやられたのは事実なのだろう、掠れた声でげほげほと咳き込みながら、エドワードはとぎれとぎれにそう喋った。そして少し疲れたように、小さな体をベッドにどさりと投げ出した。本当に疲労しているようだ。
「・・・おい、―――すると君がここにいるのは手違いがあって、そして、」
男は黒い瞳をすこし見開いた。
「きみは火の広がりを防ぐために、錬金術で町中火を消して一晩中走り回って?・・・そうだったのか・・」
ロイは副官の報告を思い出した。大規模火災の割には全焼が少ないのが不思議だった、という内容であったことを。それはこの小さな少年が国家錬金術師としての勤めを果たそうと、自分の知らぬ所で力を貸していてくれたということだったのか。
「そうか、知らなかったよ。君が東部に戻っていることも。先日の電話係りへの伝言も、まだ遠い北の街に居る、との話だったから」
男はそこで言葉を区切ると、そっと嘆息を漏らした。そして思い切ったように言葉を落とした。
「・・・それならば、戻っているなら、司令部に顔を出したまえよ、鋼の。」
ロイはエドワードの上官兼後見人として至極まっとうな事を言っている。それなのに。ロイの胸のうちには幾ばくかの後ろめたさのような、居場所の無い様な、正論を正論として語れない、そんな揺れ動く感情が混じっていた。何だこの大きく揺れる振り子のような気持ちは。
鋼のが居場所をどこに置こうと、一応人づてでも司令部に連絡は寄越しているのだから。それなのに、それではどうにも自分が不満なのだ。この少年に一歩、いや、もっと引かれてしまったという思いと、どこかで既に見限られたのではないかという不安感。
いや、私は何も間違ったことはしていない筈だ。あの件は確かに彼と彼の弟を傷つけた。特に弟思いの兄は弟を利用したことに激しく不快感を露わにしていた。待てよ、大体私が何故こんなに不安感を持たないといけないのだ。ああ、苛々する。何故だ、この彼を思いっきりなじりつけたい衝動もある。・・・私は、私は、エドワードが自分によって傷ついたことが、勝気な彼が、涙を堪えてあの雪の日に私の家を去っていったことが不満なのだ。・・・違う。不満じゃなくて、彼を思い通りにできない自分に自分で怒りを感じるのだ。一体どうしたんだ、この感情は。私は。

私たちはあの雪の日に別々の道を歩き始めたのだ。
でも、それでも。
男の心は葛藤していた。

「?・・・なんだよ、今度はアンタが黙っちまって。俺を不審者として拘束するならそれはそれで別に構わねー・・・本当は兵士や憲兵の身元確認が面倒で逃げるつもりだったんだから」
少年は横たわりながら首を傾けた。枕に押し付けた頬に金色の細い髪が乱れ、表情を隠してしまった。声が鼻声になっている。喉が苦しいのか、それとも泣きそうになっているのか。それなら、この彼が私の前で泣く理由は、おそらく私はわかっているのだろう。ロイはそう思った。
「逃げる?何故?それではますます不審者リストに載ってしまうぞ。だいたい君は軍属で国家連金術師なんだから、分かってて逃げれば、捜査に協力しないなら、発覚したとき下手をすれば国家反逆罪に問われてしまうかもしれないぞ。…何故だ?…いや、理由は分かっているつもりだが・・・君は私のことを嫌って・・・」
すると、それまで毛布と布団で顔を隠しながら喋っていたエドワードが布団を持ち上げて顔を出した。白い額と金色の瞳が姿をあらわし、その途端、男は自分の葛藤を見透かされた気がした。
ああ、この少年は。純粋すぎて。真っ直ぐすぎて。
やがてエドワードはぽつぽつと言葉を落とし始めた。だが先程よりは幾分気弱そうに、金の瞳が揺らいで表情に陰を射した。
「…だって、俺、アンタに・・・会い・・・たく・・・なかっ・・・・たんだ・・・。だからずっと報告書は郵送にしちまった・・・。ここ東部に戻ってくる時も、俺だけ戻って、・・・ああ、アルはリゼンブールで待たせてある。で、1週間ほどで文献を調べて、査定の為のレポートを書き上げるつもりだった。そんで、それも軍部の誰かに預けてしまうか、あるいはセントラルに直送するつもりだった。査定委員会にはまだ間に合うつもりだったけど、火事に巻き込まれて文献が無事かどうかまでわかんねぇ・・・。無事だったとしてもホテル街がこんなんじゃ落ち着いてレポートを書けやしねぇ・・・おまけに俺は今不審者になってるし。…なあ、大佐、俺を逮捕するかい?別に俺はかまわねぇ・・・」
エドワードはそういうとまた布団を被って今度は背中を向けた。乱れた髪が肩から背中に流れた。それと同時に髪の毛に付いていた燃えカスが床にふわりと落ちた。ロイは黙ってその燃えカスを拾うと、少年の背中を見詰めていた。少年の口も背中ももう語ろうとはしなかったが、何かを考えているようだった。しばらくして、今度は男が口を開いた。
「・・・いや私は君を逮捕できないよ。火災被害拡大を食い止めてくれた。東方司令部司令官として礼を言う。ありがとう、鋼の。すぐに軍の一般病棟に移そう。火傷と、頭の傷が癒えるまで大人しくしていたまえよ。ああ、そうだ憲兵が預かっている君の荷物もすぐに君に返そう。・・・すまなかったな」
ロイはエドワードの背中に向かってそう告げると、静かに部屋を出て行った。午後の日差しがそろそろ西日になろうとしていた。



3日ほどして。
男はまだ火災の原因究明に奔走していた。もしテロの可能性が1%でもあるなら見逃す訳にはいかない。焔の錬金術師の名にかけても。もしそうなら、よくも私の管轄下でふざけた真似をしてくれたものだ。男の目には殺気がこもっていたに違いないだろう。
殺気立つ執務室にノックの音がした。「入れ」という返事と同時にすべらかな白い指が見え、男の副官が姿を現した。
「なんだ。何か分かったのか」
男は報告書から目を離さずに問うた。
「今回の火事の原因ですが、火元に近い大通りの裏手で酔っ払いたちがアルコールビンを割って火をつけていたという目撃があります。」
その報告にロイはおや?というように顔を上げて副官を見た。
「・・・すると、今回の大火は放火なのか?」
「放火というか、放火に限りなく近い失火、といったところでしょうか」
「ふむ、ではテロの可能性は無いということなのか?」
「あれから何も起こっていません。現在までに犯行声明もありませんし、今のところ、東部のくだらない3流タブロイド紙のネタになっているだけです」
「タブロイド?ああ、そういえばそんな噂が流れていたな。ヒューズがタブロイドのネタになると疵がつくとかいって怒って電話をかけてきたな。まあ、向こうでも違う角度で調査をしてくれているのだろうが」
「その紙面をご覧になりますか?それから新聞社に圧力をかけておきますか?」
そう言いながらホークアイは、小脇に挟んだ薄汚れた新聞をそっと執務机の端に置いた。
「・・・いや、どうせありがちネタの見出しだろうから放って置けば良い。テロを出し抜かれたのなら別だがね」
「分かりました」
「で、その酔っ払いは身柄を確保したのか?」
「はい。目撃証言があるので近いうちに確保できるかと」
「そうか、頼んだぞ」
「はい。・・・ああ、それから銀行の貸金庫係が大佐に面会を求めています」
「銀行?貸金庫?・・・ああ、確か被災で損壊したので、銀行が金庫室のセキュリティーを見直すために、中身を顧客に一時返還しているという話か?――分かった。30分程待ってもらってくれ」

しばらくして、ロイは部屋に銀行員を入れた。やって来た行員はこの前の品のいい役付きとは違って、東部の司令官であるロイに会うのに緊張しているようだ。汗を拭き拭き行員は手続き書類をロイに見せた。
「これがエルリック氏の貸金庫の書類です。」
エドワードが借りた金庫なのだが、連絡がつかないので保証人のロイ=マスタング大佐に返還する、という話だった。ロイは書類を手に取ると一通り目を通した。まだ子どもっぽさの残る筆跡と保証人欄のロイ=マスタングの流れるような筆跡が対照的だった。ロイはサインをしてやった日のことを思い出す。あの時彼は自分に頼み事をするのを嫌がってなかなか切り出さなかったのだ。私は自宅に部屋を用意やるといったのに。それならば。
「…分かった。では彼がいま入院中なので、その金庫の中身は私の自宅へ送ってくれ」
「承知いたしました」


さらに1週間ほどして、ようやくエドワードが退院してきた。
ハボックが大佐の命令で、弟アルフォンスへの連絡と、心配しないようにとの兄の伝言を伝え、そしてエドワードを迎えに行ってやったのだ。
ハボックの心中は複雑だった。元々気のいい青年で、エルリック兄弟とは初対面の時から知っている。そして兄貴分のつもりでもあったから。それなのに。あの捜査では、上官命令とは言え、馴染みの、しかも子どもの、エルリック兄弟を利用したという多少の後ろめたさは残っている。それがこの青年の気を重くしていた。
久しぶりにハボックに会うエドワードは、いつもより無言で大人しそうに見えた。二人の間にしばらくの沈黙が流れた。
「…なあ、大将」
気まずい沈黙に耐えかねて口火を切ったのはハボックの方だった。トレードマークの咥え煙草を、吐くように地面へと捨てて、軍靴で揉消すと、ハボックは背の高い体を少しばかり屈めて、なるべくエドワードの視線に合わせようとして話し掛けた。いつもはくるくると回るエドワードの利発な瞳は、生気が無いように見えた。
「・・・何、なんなのさ、ハボック少尉」
少年は目を合わせないで返事をする。目を逸らす少年にどう切り出せばよいのか、少尉は青い瞳を一巡させた。しかし病院の廊下にいつまでも突っ立ている訳にも行かず、少尉は黙って歩を進ませ、車へと向かった。傍目には歳の離れた兄弟に見えたかもしれない。
少尉はキーを差し込むとエンジンをかけ、無言で少年を隣席に座らせた。車窓にはありふれた日常の風景が流れていく。
再びハボックが口火を切った。
「・・・あの、その、お前、俺たちのこと・・・・その、つまり」
「・・・」
「つまり・・・おおっぴらに口にできないことだが・・・その」
「・・・アンタの言いたい事は何となく分かる。あのことだろ・・・今更言われたって、あったことは無かったことにできないだろ。そりゃ俺だっていい気はしなかった。今もしない。ただ、不思議なことにあんた達には腹は立たないんだ・・・だけど、アンタたちは軍人なんだから上官の命令に従っただけなんだろ。そう、軍人なんだから・・・だったら俺には何にもいえない。俺だって軍属だからといえばそれまでだけど・・・それにこれは俺と大佐の問題だと思う・・・」
「・・・そう・・・なの・・・か」
「俺だって十分納得しちゃいねぇ。ひどく腹を立ててるわけじゃないけど、理屈と感情がついていかないんだ。もういわないでくれよ。頼むからさ。上手く納得したいんだよ。噛みあわない気持ちをどうにかかみ合わせたいんだよ・・・上手くいえないけど・・やっぱ辛いんだ・・・頼むから謝んないでよ。軍部のアンタに謝られたら余計に辛いだろ・・・」
まだ包帯の残る左手で同じく包帯の残る額をかきあげる仕草。そこには少年の持つ複雑な感情が金の髪の間に揺れているように思われた。
「・・・そう、か」
ハンドルを握りながらハボックがぼそりと返す。心の隅で安堵の息が聞こえた。後ろめたさは十二分にあって、正直迎えに行きたくなったのである。
上官の命令であるし、それでもエドの事は可愛い弟だと思っているし、何より悪いのは自分達大人だ。この事実がどうやって発覚し、大佐が少年にどこまで話したのかは、自分達には知る術も無く、上官に着いていくだけだが、それでも相当なことが二人の間で交わされたのがあったのは分かる。
「・・・、でさ、これからどこいくの。俺としちゃ査定に備えて資料を広げられる場所のあるホテルに移りたいんだけど」
「そのことなら大佐に言われている。どこであろうと研究に没頭できりゃ文句はあるまい」
運転席のハボックは、隣の少年の表情を確かめるようにちらりと垣間見る。嫌な顔をしてはいないかと。
「そりゃもちろん。今は査定が重要なんだよ」
エドワードの返事にほっと胸を撫で下ろしたハボックは、夕暮れ時下のイーストシティを車を走らせていた。
黄昏のオレンジは空を染めて広がり、あの大火の夜を髣髴とさせた。同じ胸中なのか、二人は車のなかで同時に小さな嘆息を漏らした。
やがて走るうちにエドワードの記憶をたどる車窓風景が見え始めた。そして、車の止まった先は。


「ちょ…っ!ここっ…!」
車を降りたエドワードは目を丸くした。車窓からは何となく見知った道だとは思っていたが、まさかこことは。
そうなのだ、ハボックがエドワードを連れて行った先はこともあろうにロイ=マスタングの家だったのだ。
ハボックの方を振り向いたエドワードは、わなわなと震えて、泣きそうな困ったような、そしていまにも噛み付きそうな複雑な形相をしている。
「・・・何で・・・あいつの家なんだよ・・・!!」
「だってお前の研究資料がここに届いているんだ。銀行の貸金庫から」
「ちょ、と。貸し金庫まで勝手にもってきたのかよ?俺は聞いてないぜ!?」
急に大声を出しすぎて、ゲホゲホと咳き込み、エドワードの顔が歪んだ。
「ともかく俺は、その、ここにお前を連れてくるように言われたんだ・・・すまない」
そういうとハボックはエドワードに預かってきた家の鍵を手に握らすと、足早に去っていった。
エドワードの掌に残された銀色の鍵。紫紺の夕闇が少年の周りに迫ろうとしていた。


深夜。
黒髪の男は、自宅の明かりがついているのを遠くから見つけると、そっと胸を撫で下ろして微笑んだ。
静かに玄関のドアを開ける。1階には食事がセットされて残されていた。が、人の気配はない。かれは2階に上がっているのか。しばらく様子を窺っていたが、降りてくる様子も無い。ならば好きにさせてやれば良いだろう。
ともかく、エドワードがいやいやだろうが、自分の家で研究報告を書くというのは、二人の間柄では画期的な進展であったといえるだろう。
国家錬金術試験以来のロイの家なのだ。しかもその間に、二人は紆余曲折を経て余計にややこしくなっている。利用するものと利用されるもの。互いにそう公言してきた。が、実際に利用された側にとってその事実は残る。男がそうはっきりと告げたあの雪の日から。
それでもなお、エドワードとロイはなぜかそれを除いたとしても、何故こんなに気になるかが分からない、というところで止まっているのだ。
もし男女の間柄なら、これは恋なのかもしれないと、大人の方が感情に折り合いをつけるのだろう。同性の、大人と少年の感情。いかなるものと呼べるのだろうかは、しらないが、ともかく互いの中の互いの比重は重くなっていった。
この行き所の無い無防備な感情を二人は持っている。大火の後のくすぶる燃えかすを握り締めるように。掌が火傷しようと、煙が目に痛かろうともくすぶりを離すことは出来ない。なのに、一体それをどうしたらいいのか、彼らには分からないのだった。
「ともかく、かれがいるだけでも進歩じゃないか・・・」
ロイは軍服のコートを脱ぎながらそっと一人ごちた。
着替えるとウイスキーのグラスを持ってきて、書斎の窓辺の椅子に掛けて氷の音を聞きながら、早春の月を肴に一人グラスを傾けた。コンラッドと酒を交わした日もあった。遠い日だ。あの日は過去になってしまったけれど約束は生きている。自分自身への約束でもあること。


3日が過ぎた。
家の主と客人は顔を合わせずに時を過ごしていた。少年は、以前の国家試験のときに与えられたのとは違う屋根裏部屋を与えられ(エドがどうしても屋根裏が良いと言い張ったのだ。)、朝から晩までこもりきりで文献を読み漁っている。ロイが民間の研究者から寄贈された本は、エドワードに与えられた最初の贈り物として、読み放題の権利だったから。
そして男は早朝から深夜までの時間の大部分を、軍務に励んでいるらしい。らしい、というのは、時折女性の香水の移り香が玄関付近に漂う時があるからだ。それの意味するところに少年は何となく分かっていたが、特に何も聞かなかった。
そうさ、俺には大佐が女性と付きあおうと、なにをしようと関知するところではない。
食事の支度や掃除など、その他の日常生活も、1日おきの通いの家政婦がしてくれるので、二人の間に気まずい空気が流れるような場面は起こらなかった。
そんな彼らの奇妙で静かな同居生活は4日目になろうとしていた。
その夜は、エドワードは、貸金庫に預けた文献を紐解くつもりでいた。自分の研究ノートは、大部分記憶しているので、整理目録のようなものだった。それと旅の途中でドリーという男から譲り受けた研究ノートの束。それらはまだほどかれてはいなかった。エドワードが油紙で幾重にも包まれてさらにきつく結ばれた革紐にナイフを入れようとしたとき。
部屋の扉を、コンコン、と叩く音がした。

「・・・鋼の、はいらせてもらうが、構わないか?」
躊躇いがちな扉のノックに一呼吸おいて、男の声が聞こえた。そして私服に着替えたロイ=マスタングが顔を覗かせた。エドワードは背を向けたまま、錬金術師の条件反射のようなもので、革紐を切ろうとしていた研究ノートをさり気なく引き出しに仕舞った。冷徹と評される強気な上官はいつに無く言葉を選んで、少年に語りかけようと努力をしているらしい。
「鋼の」
返事に困ってしまったエドワード。なんと答えたらよいのか。そっぽを向いて黙ってしまった。ロイは更に訊ねる。
「ところで」
ロイは腐普段見慣れぬ私服に見を包み、エドワードに一応気を使ってやっている。
「・・・資料は足りているのか。それから気分はどうだ」
「ああ、おかげさまでもう何とも無いよ」
答えてからエドワードはしまったと思った。今の言い方では誰が聞いても嫌そうにぶっきらぼうに聞こえたのではないか。この少年は喜怒哀楽をまっすぐに出しすぎるのだ、良い意味でも悪い意味でも自分に正直すぎて直球を投げることしか知らない。
一晩中錬成をして、火事を食い止めていたらしいということからも、彼の正義感の強い性格が窺えるというものだ。
斜め後ろから垣間見る少年の表情はくちを一文字にきゅ、ときつく結び、足は困ったようにもぞもぞと動いている。そんな珍しい仕草は、歳相応で幼いとさえ男は思った。こんな彼を見ていられるのなら無理にでもここへつれてきた甲斐があったというものか。おっといけない、これはまるでたくらみではないか。ここにつれてきたのは純粋に研究場所を提供してやりたかったからだ。そうだ。よいレポートを書かせてやりたいし、書いてもらわねば。
「・・・くっ」
ロイは思わず小さく笑った。らしくなくてらしくて。そんなエドが何故かいとおしいと思ったのだ。 もちろん本人はロイがそんなことを思っているとは露知らずである、知ったら子ども扱いしたといって烈火の如く怒るだろうから。
「その、君にとって全くの不本意だろうが・・・安全で査定レポートの書ける環境といったらここしかなくって申し訳ないが。なんせ町のホテルは、焼く出された人の、一時住いや、軍が不審者洗いをまだしているから。ここなら君に良い環境を提供できる。好きに使いたまえよ。私はほとんど家に帰らないだろうから顔を会わせることも無いし…」
なあ、とエドワードがぽそりと尋ねた。
「良いレポ^−トを書くことはもちろん俺のためでもあるけど、大佐、アンタ自身のためでもあるんだろ。また出世に使うの。そうだろう?」
不信感を隠さないエドワード。目がまっすぐきらりと光っている。もうアンタには騙されないぞという強い決心が見て取れる。その表情を素早く読んだロイは言った。
「私はもう君を騙せないよ。安心したまえ」
拍子抜けするほどの返事にエドワードは目を見張った。そして問う。
「俺を利用するんじゃなかったのかよ」
「利用はさせてもらう」
「が、騙しはしない。双方合意の下で、今度は私だけでなく、君のためにもなることだ。国家錬金術師の査定なんだからね」
(騙しはしない、か・・・)その己の問いに、今までロイのなかで躊躇っていたものがすとんと落ちたような気がした。そうか。例の中央の査定委員会への推挙をまだ保留にしていたが、査定委員会とエドワードのレポートを引っさげて中央に参加するもの悪くない気がする。むしろ良い結果を得るだろう。
エドワードは実践を重んじるから、机上の研究者は太刀打ちできまいよ。そう、あの御仁だってそれが望みな筈だから。ロイはほくそえんだ。いまさらもう、この期に及んで、利用するしないなどと口に出すには陳腐なことの気がしてきたから。エドは高い評価を受ける。私はそれを推挙した人間として足が架かりが増える。迷うから迷うのだ。決めたことには真っ直ぐに進む、手段を選ばない、が私のやりかたではなかったのか?・・・


しばらく階下に降りたかと思うと、今度は、ロイは疲れた様子でランプを手に、エドワードに提供した屋根裏部屋に再び上がってきた
「鋼の」
「なに」
「すまないが、眠れなくてね。昔語りに付き合ってくれないか」
「昔語り?俺、いまから、新しい研究資料を・・・」
エドワードは引出しの中身が気になっていたが不本意でも場所を借りている以上、「出て行ってくれ」とは言い出せないでいた。金庫の書類も「研究資料一欄」とあるだけで明細は書いていないから、大佐にだって、未研究の資料が、少年のすぐ傍にあるとは思わない。そんなものがあるとは知らないのだ。だがロイは些か酒を嗜んだあとなのか、アルコールの匂いがする。 「アンタ、飲んでんかよ・・・」
秀麗な眉間に皺を寄せてエドワードは嫌そうな顔をする。構わず、ふらっと、空いた椅子にどさりと体を投げ出すと、独り言のように語り始めた。
「・・・ああ、そう、・・・うらぶれた黒髪の男の昔語りだよ・・・くだらないはなしだが・・・」


午前25時はとうに回っていただろう。
珍しく雨が降っていた。さあさあとガラス窓を流れる雨水は、外壁を伝い地面に吸い込まれ、シティの川に放流され、やがては大河の1滴となる。どこを通った雨水も還る所は大河の1滴、そしては大海の1滴になるのだ。
そのあいだに浄化され、汚れた水も、清らかな水も、単にただの大海の一滴になってしまうのだ。
いってみればエドワードも、ロイも。
それは、そんな感情を呼び覚まさせる、水の底の、本能が覚えている記憶の夜だった。








 02/02/UP         03/05UP 大幅に修正加筆。





back  NOVEL TOPへ  next


[PR]動画