爪 き り         ACT 1. 上 官







その日は素晴らしいほどの青天だった。早い時間から、きらめく太陽が、もう力強くなり始めていた。
部隊の兵士は身支度に忙しい。弾を込めるもの、銃身をウエスで掃除するもの、それ以外の装備も数多くあり、どれ一つ欠けても、いやたとえ完璧な装備をしていたとしても、命の保証はしてくれない。戦場とはそういうものだろう。
「捧げー、銃!」
兵士や下士官達に隊長からの号令が響き渡る。あわてて立ち上がり、ザッ!と地面を蹴る音と、銃身のがちゃりという重々しい音が同時に一斉に揃って聞こえた。
私は自分に与えられたテントのなかで、そんなざわめきを聞いていた。夜明けというには遅すぎ、朝というには日はかなり高かった。
簡易ベッドの上で覚書を捲ったり閉じたりしながら時間を潰し、一兵卒か少年軍属が食事を運んでくるのをまっていた。私は少佐という階級を、士官学校卒業と同時に与えられた人間だった。そう、君の想像どおり実践の無い若造にしては、おおいに恵まれていたたと思うよ。実際、私のテントは私専用の個室同様だったし、直属の上官もまだ決まってなくて、私は自分で自分の身の置き所を待っていたというような状況だった。
暢気すぎるかい?それは戦場に相応しくない?ああ、そうかもしれない。他の者は武器の装備に忙しいというのに、私は私自身が装備された武器なのだから今更何にもする必要が無かったからだ。

男は話の途中で持ってきた酒を古びたテーブルの端に置くと、エドワードにも勧めた。

「どうだね、試しに飲んでみるかい?」
「おれはッ・・・まだ・・・」
困ったようにエドワードは仄かに顔を赤らめて視線を逸らす。子ども扱いが悔しいが、自分ではそう返答しか出来ないのが歯がゆいのだ。
「酒は地獄と天国の味だ。」
ロイはぼそりと呟くとグラスを軽く揺すった。氷がカランと乾いた響きを立てた。グラスの中の氷片に男の黒い瞳が映り、琥珀色のウイスキーと混じりあって、濃い赤銅色の瞳孔を持つ猛禽の目に見えた。
「・・・じゃあ・・・それが、アンタの初陣なのかよ・・・?」
少年は男が意外な話をし始めたのに興味を持ったのだった。うらぶれた男の話、とは随分と卑下した言い回しだが、いくら内乱の英雄と称えられても、本人にとってさほど興味も意味も無かったのかも知れない。もしかしたらこのひとは・・・・俺が思っているより繊細なのかも知れない。ああ、そうだった。コンラッドのじいさんもそういっていた気がする。だけどどこがどう繊細なのか少年には推し量ることが出来なかった。だって、繊細な人間が、あんな酷い裏切りや己の利益のために他人を利用することが出来るのだろうか?でも、それでも。エドワードはロイの奥底の闇の水溜りに沈んだ空虚な心の欠片を思った。
「・・・そう、召集と出動命令を同時に受けて、いきなり士官用の軍用列車に乗せられて、東部についた。―― 戦線は膠着状態で、国軍の旗色は悪かった。そこで一気に壊滅せよとの命令が出たという訳だ。イシュヴァールの街を、人民を、焼け、とさ」
少年は男の顔をじっと見ていた。このやり手で通っている若い大佐は実は繊細な神経と、強靭な意志とを併せ持つ希に見る人物なのだろうと次第に考え始めていた。
だったら。コンラッドの件で、手段を選ばずじいさんを俺たちを利用したのを、心痛めていないのに違いない。しかしこの件については、エドワードには不思議と怒りは無かった。あの雪の日の衝撃はあったが、ロイに対する怒りではない。そういう世界だという認識が自分に足りなかったのかも知れない。あるいは、憎まれ口は聞いてても、手続き上の保護者であっても、少年達は男や彼の部下を頼りにしていたのに違いあるまい。その落差がなんともみっとも無く、自分を子どもたらしめる要素のようで居心地が悪く、エドワードは自分で自分に酷く苛立つのだった。その苛立ちがこの数ヶ月、ロイから足を一層遠のかせていたのかも知れない。それでもやはり裏切りは裏切りで。自分よりもコンラッドに対する裏切りが怒りの核を満たしているのだろうか。
「まあ、そうだが、ただの、つまらん、昔話だ・・・それからは・・・」
ロイは些か酔ったらしい。話を勧める内に何杯も飲んでいた。エドワードはそれを止める術を知らなかった。
「当初、国家錬金術師は直属の上官を持たず、大総統勅令によって動かされていた。しかし戦線視察のために大総統がそうたびたび大本営を留守にする訳にも行かず、やがて私は、上官を持つことになった。しかし、他の錬金術師の上官が次々と決まっていく中で私はなかなか決まらなかった。焔の錬金術師をどう扱えるものか将軍達の力量をためされるものでもあり、喜んで名乗りをあげるものはいなかったそうだ・・・。そう、あとでそうきかされたのさ」
この男になかなか上官がつかなかったのが、エドワードには不思議であった。これこそ利用価値のある国家錬金術師ではないのか?当時のロイはどんな男だったのだろうか。少年の心の中には、別の方向から、男への興味が頭をもたげ始めていた。
「それから、程なく、雨季に入ったんだ・・・」
ロイは片手を目に当てて遠い記憶を支えるようにぽつりぽつりと話す。
東部から広がる砂漠地帯は乾燥が常だが、短期の雨季も併せ持つ気候に属していた。イシュヴァール人はなれた雨季を利用してゲリラ戦と食料の確保に躍起になっていた。
「ある日、私のテントにイシュバール人の子どもが入ってきた。私が寝ていると思って、金目のものを奪い、水筒を空にしようとしたらしい。われわれは彼らと違って雨季が終われば干上がってしまうからな。だから私はその子どもも焼いた。初めは手加減するつもりで軽く。だが彼は私に突進してきて、右手に噛り付いたのだ。錬成陣の手袋ごとだ・・・お蔭で私の爪は一部剥がれてしまいなれぬ左手で焔を出して戦わねばならなかった・・・」
「・・・爪、はがれたのか?」
神経の集中した指先の痛さを思い、エドワードはゾクっとした。機械鎧の手術の時だって指先が一番辛かったのだ。
「ああ、それから、ぶざまにも醜い爪になってね。そんなある日、外を歩いていたら、脇からいきなり私の手を取って『不器用だな』といった男がいたのさ」
ロイは口元を緩め、ふふ、と笑った。自虐的な含みがあるようにも見えたが、エドワードにはそこまでは分からなかった。 ただ、イシュヴァールの子どもを本気で焼かなかったことには安堵を感じた。
「そいつはふところからごく小さなはさみを取り出して私の歪んだ爪の形を整え始めたのだ。」
「アンタ・・・・抵抗しなかったのかい?」
エドワードは目を丸くする。童顔で温厚そうだが、プライドが相当に高いことも分かっているこの男が、他人にやすやすと指先を触らせるものだろうか。
「それは初老の軍人で、サンドグレーの普段軍服を着ていたよ。私は何故だか抵抗できなくて、指先が整っていく心地良さにバカのように突っ立っていた。」
グラスのウイスキーはもう空になっていた。氷片には男の黒い瞳が大きく映っていて、今度は黒いしやなかなしたたかな猫を思わせた。
「男の名はジョン・F・コンラッド」
「おい、それって・・・じいさん・・・?」
少年は腰掛けていたベッドを驚きで軋ませると半立ちになった。
「当時は少将だった。」
更にロイは続けた。
「コンラッド少将は生涯で初めて部下の爪を切ったそうだよ」









 06 03/13 初回UP         





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