6   髪 の 毛        










「…ふむ」
ロイ・マスタングは執務机で、本来の仕事の合間をぬって己の手を見つめていた。そして小さくため息をついた。 一向に仕事の進まない上司を見て、副官であるホークアイも小さくため息をつく。 そして部下たちは書類の下でこっそりとささやく。
「今朝のアレか?」


朝、エドワードが1番列車でイーストシティに戻ってきたのだ。
そしてその足で司令部にやって来た。どうやらこのあと用があるので、少年にすれば面倒な報告をさっさと済ませてしまいたいのだろう。早朝の打ち合わせを終えたロイは、そのまま司令部でその報告を受け取っていた。
軍人が所属地を旅行等で離れるときは、所在と予定を定期連絡で入れるように規定があり、 エドワードのような軍属も、決して例外ではなかった。加えて、彼らは旅から旅へのかなり自由な行動を特に許されており、それを続ける為にも規定は守らねばならなかった。そして視察要請があれば報告書を提出しなければならない。
司令官である男はこの新しい国家錬金術師の上官だけでなく、後見人も果たしていた。親無しで家無し。12歳と11歳だったかれら。軍属に年齢制限は無いが、未成年である以上、少年たちは管理されねばならないだろう。それに日常生活の保証の為にも後見人は必要だ。
旅先から連絡を受ける度に安心はするが、顔を見るまでは男の心には波立つものが僅かにあった。少年の帰還、それはふと湧き上がる己の心の細波を凪る時でもあった。細波は、少年が自分に向かって第一声を挙げるまでは広がっている。年齢以上に遥かに優れた頭脳を持つかれらを、子ども扱いしている訳ではないが、上官であり後見人としては仕方あるまい。 男は心の細波をそう分析して納得していた。

「…ふわわぁ」
久しぶりに会ったエドワードは、男の前で、大欠伸をしながら報告していた。 こういうところは相変わらずである。
行儀の悪さは今更のことなので特に咎めだてもせず、男は少年の報告書に質問をしながら、適当にそれを窘めていた。やがて少年が唐突に言い出す。
「あの…腹減った」
もう少しだから我慢したまえと言いながらも、自分も朝食がまだだったなと、男は苦笑する。そしてふとあることを思いつく。ああ、さて、彼は私の提案に応じるだろうか。
「この報告が終わったら、私と一緒に食事をしないかね?」
「……してやってもいいけど」
執務室に運ばせた朝食を一緒に摂り、ソファで差し向かいでお茶を飲みながら男は考える。この少年とこうしているのは、あの国家試験の時以来だったか…。
目の前の少年は、空腹を満たして満足したのか、機嫌よく見える。そして男の質問にぽつぽつと返事を返す。旅の話も時折交えて。調査報告は毎回きちんと出すが、彼が自分から、旅の話を詳しくするのは初めてだったか。珍しいものだ。普段は報告書以外の部分は見えないのに。 僅かな心の昂ぶりだとしても、それは久しぶりに心地良い感触であった。 たとえこの少年の一時の気まぐれだとしても。

「…っと、もう行かなきゃ。宿でアル待ってんだ」
ソファでお茶をお代わりしながら喋っていたエドワードが、思い出したように立ち上がる。今朝、ここへ来たのは報告の為の兄だけで、弟は街の常宿へと、既に荷物を運んでいるはずだ。
「また君は彼に荷物の片付けを頼んだのかい…」
ロイは嘆息混じりで呆れたように言う。脳内物の整理整頓は素早く上手いが、実体物の片付けはてんでだめ。
「だってアルの方がそういうの上手いからさ。それに帰ったらすぐに図書館行くし…時間が惜しいだろ?」
頭は良いが奔放で生活能力にやや欠ける少年と違って、弟のアルフォンスは細かく気が付く性格らしい。そして兄の世話に余念がない。役割分担とは言わないが、兄弟とは上手く出来ているものだとロイは思う。
口を尖らしながらも口調は怒っていない。今日はこの少年のそんな態度が酷く珍しいものに感じられて、男はそれをもう少し見たいと思う。 では、私はまだ調べ物があるが、そこまで送ろうか、と立ち上がった。その時、男は少年の髪が酷く汚れて崩れているのに気が付いた。旅先ではそうそう洗えなかったのかもしれない。加えて、おそらく列車で眠りこけて崩れ、気付かずにやって来たのだろう。 ここまではよかった。
「おい、鋼の。なんだね…」
君もいちおう軍属の端くれなら司令部に来る時は、せめて髪ぐらいはきちんとしたまえ、だらしないぞ、規定だってあるだろう、と、軽く嗜めながら、手を伸ばしたそうとしたその途端、
「…で、やめろよっ…!」
拒絶の言葉と共に、少年は男の伸ばした手をぱしりと叩いた。そして少年は、男を睨みつけたまま、僅かに後ずさりしたかと思うと、くるりと背を向けて逃げるように走り去っていった。 出勤してきた部下達の面前で。男はつとめて顔には出さないが、その行動に少なからず驚いた。さっきまでは機嫌よく、珍しく笑顔も見せていたではないか…。そんな司令官の心中をよそに、彼らは興味深げに声を荒げて走り去る少年の後姿と手を叩かれた司令官を、何事かと交互に見遣る。唖然とする男にさらに追い打ちがかかった。
「マスタング君、きみ、いくら部下でも子どもをいじめちゃいかんよ。泣きそうな顔をしておったよ」
通りかかった将軍にまで言われてしまった。 これが「今朝のアレ」なのである。


「兄さん、大丈夫?」
ねえ、体にだけは気をつけてね、と、何かを察したカンの良い弟が静かに声を掛ける。 「今朝のアレ」のもう一人の当事者、エドワードは、三つ編みをいじりながら 宿のベットに黙って腰掛けていた。

今朝、宿に戻ってきた兄は、図書館への時間に遅れるわけでもないのに、なぜか、 走ってきたのかのように息を弾ませていた。そしていきなり洗面所へと駆け込んだ。…気分でも悪いの?兄の様子を不審に思った弟はそっと覗く。エドワードは崩れた三つ編みを解いて、髪を丹念に漉いていたのだ。ふと、鏡の中に弟の姿を見つけると、振り返って髪を編んでくれと頼む。
―あれっ、珍しい、いつもはとことんくちゃくちゃにならないと、言われないと、直さないのに。
弟は請われるままに、兄の髪を綺麗に編んでやる。…髪色は違うが、長い髪を下ろした兄の後姿は大切な人を思い起こさせた。そして髪を丁寧に整えている弟の手の動きは、エドワードに同じ人を思い起こさせた。

図書館でいつものように本を調べていたのだが、いつになく兄は集中力に欠けているように思えた。 朝の列車が混んでいたから疲れたのだろうか。それに前日は報告書を書いていた。こういうところはやけに真面目だ。 自分は今は疲れない体だが、兄はなんといっても生身の体だ。おまけにちいさい…。
今日はもう帰ろうと、無理矢理早めに切り上げ、兄を休ませるために宿に帰ってきたのだが、結局は同じ状態。横にもならずに黙って髪をいじっている。 原因はどうも別な所にありそうだ。 この兄は変に意固地な所があるし。

その変に意固地な兄は、今朝のことを頭の中で反芻していたのだ。 男の手が髪の毛に触れると感じた瞬間、口走ってしまった。 しまった、とは思ったのだが。
「…オレ、ちょっと散歩してくる」
木々の花が散り初めて替わりに緑が増える晩春の頃。 街はすでに黄昏を迎えはじめていた。冷やりとした空気が頬をかすめる街を、エドワードは何処へ行くともなく、人に押されて通りを流れていく。
街灯がうっすらと点りだし、家路を急ぐ人たちで大通りは混んでいた。 夕食の材料を求める人、家族へのお土産らしき菓子を選んでいる人、手を繋いで歩く親子連れ…
やがて オレンジ色の灯りのつき始めたアパートの窓辺に人影が映り、生活の声が聞こえる。 暖かそうな光と声が、エドワードの頭上にある。 エドワードは時折目を細め、それを見上げながら歩いていく。 そして、川べりに腰を下ろして、対岸にそびえる東方指令部の建物を見つめていた。



男は思い起こしていた。少年がが自分の管理下になってから1年と数ヶ月。 自分は彼をかなり把握したつもりでいた。 頭の回転は素晴らしく速い。 特に集中力と記憶力とには舌を巻くものがある。 旅から旅への彼らは、当然ながら蔵書というものを持てない。 各地での図書館めぐりで得た知識は、その場で記憶し、 必要な時はいつでもすぐに取り出せるようになっているらしい。
直観力にも優れている。文献や資料をみせてやれば、そこからヒントはすぐに見つける。 そして彼らの目的以外に、軍属としての仕事は、きちんとやってのける。錬金術の研究と実践力はいうまでもない。最年少の国家錬金術師としては、まさに文句のつけようがないのである。
だがメンタル面ではまだまだ解らない部分が多い。 山猫よろしく警戒心が強く、特に弟のこととなると、全身の毛を逆立てて立ち向おうとする。 直情型で熱いかと思うと、妙に冷めた一面もある。
金色の双眸はいつもきらきらと力強くきらめき、内奥には炎が見えるようだ。 生い立ちの所為か、自立心は並みの大人以上に強く、子どもであっても子どもをあまり見せない気がする。
彼をここに連れてきたときから、子ども扱いはしていないが、所詮は子どもだ、という甘さが自分にあったのだと 認識せずにはいられないと感じ始めていた。

そんな矢先に、エドワードが旅の話を自分からしたので、珍しいと思っていた。もちろん今までだって、訊けば答えるし、雑談冗談は交わしてはいたが。 しかし、言葉遣いは変らないが、少なからぬ笑顔を自分に向けて。
他愛無い内容が多かったが、旅での彼らの生活ぶりや、考え方に触れたような気がした。 自分は多少なりとも、この山猫のテリトリーに入れてもらえたような、いや少年が己の手の内に入った気持ちだった。
なのに、あれが、そんなに気に触ったのだろうか。あの程度の嗜めで。手を伸ばしただけで。上官としては当然ではないか。もし、少年が男の髪にいきなり触れればそれは無礼になってしまう。男は上官で少年は管理下に在る身。 軍の狗になって尻尾は振っても、頭は撫ぜさせない、とでもいうのか。いや、そうでは無くて…
しかも怒った顔ではなく、将軍曰く、「泣きそうな」顔で逃げられた。 そして、なによりあれが、ロイの胸をえぐっていた。


ろくに仕事にならない1日を終え、ロイは疲れきって司令部を後にした。
空は鉛色の雲の隙間から、朱色をわずかに見せる程度になっていた。既に黒い影だけとなった、教会の尖塔を遠くに見ながら街へと向かう。 夕刻の雑踏のなかで、時折、誰かの肩があたり、 失礼、と声を掛けながらロイは歩みを進める。
「エドワード!」
その名前にロイが振り向くと、通りの向こうで、名前を呼ばれた小さな少年が、 ぱたぱたと走っていくのが見えた。少年は名前を呼んだ母親の元へと、力いっぱい駈けて行く。
明るさを増した街灯が、ロイの顔に影を落とし、昼間より温度を落とした空気が、 風となって体をかすめ、彼の黒い髪の毛を数本舞い上げた。 昇りはじめた月がゆっくりと雲間から現れ、男の歩く影をいっそう濃く長くした。



翌日。
顔を合わせた二人を、指令部の面々は緊張の面持ちで見守っていた。 ロイは無言だが、不機嫌そうな顔をしているし、エドワードは何気に目を合わせない努力をしているのが解ったからだ。
しかし、少年の行儀悪さは今に始まったことではないし、男も承知していた筈。お互い何を何時までも引き摺っているのだろう。面々にはそういう疑問もあった。
執務机の前に立つ少年は、新しい指示書に目を通し終えると顔を上げた。男が何かいいたげに口を動かした。
しかし。 二人は淡々と連絡を済ませただけだった。
「鋼の。次はいつ発つんだね」
「…明後日にでも発ちたいんだけど」
「分った」
これだけ交わすと、言葉通り、エドワードは二日後にはさっさと旅に発ってしまった。






04/08/24 初回UP
05/01/23 加筆UP





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