冬の雨の夜。 ロイ・マスタングは、書斎での書き物を一つ終え、顔を上げた。 窓ガラスを叩く雨音が大きく響く。 夕方から降り始めた雨は、さらに強くなったようだ。 窓のカーテンを少し開け、外を見る。 が、見えたのは、窓ガラスを伝う雨に垣間見える隣家の灯りと、机上のランプ でうっすらと窓に映しだされた己の姿だけだった。 ほう、とロイは小さく息をつき、それからコーヒーを入れにキッチンへと下りた。 お湯を沸かし、豆に注ぐ。 かちゃり、とスプーンがカップに当たってわずかに音が響く。 ロイは独り呟いた。 「こんな夜も悪くない」
それから。かたん、と、何かがドア当たるような音も聞こえた。 こんな雨の夜更けに。 ロイは軍人の顔に戻り、息を潜めて玄関に近づいた。 身を低くして、ドアノブにそっと手をかける。 そして、気配を殺して扉を開けた。 そこには、自分のよく見知った少年が、ポーチに座り込んでいた。 「鋼の…!」
エドワードがあんな姿でポーチにいるとは。 家に入ったエドワードは無言だった。 金髪は水を含んで顔に張り付き、馴染みの赤いコートからは雫が滴り落ち、 ズボンも膝上までぐっしょり濡れていた。唇も紫色になっている。 これはタオルでは間に合わない。今夜は冷え込みもひどい。 ロイはエドワードをバスルームに連れて行った。 が、一向に水音がしない。 もしや、と思って声を掛けそっとドアを開ける。 エドワードは寒気に震えながら、黙ってバスタブに腰を掛けていた。 「君は服も脱げないのかね」 ロイは服をあらかた脱がすとコックをひねり、お湯を出した。 「あとは自分でやりたまえよ」
着替えに自分のパジャマとガウンを押し付け、ロイは訊ねる。 「どうしたんだ。一体いつからあそこにいたんだね」 しばらく間があって、少年はやっと口を開き、掠れた声でぽつんと答えた。 「傘、忘れたから。ここ、通りかかったから」 雨は夕方からずっと降っていた。なのに傘を忘れ、しかもこの時間に 通りかかったと。嘘だ。昼間、司令部で、こういっていたのは彼だ。 「雨が降りそうだから早く帰るよ」
そこの私のベッドを使っていい。私は書き物で夜通しかかりそうだから」 エドワードが無言のままこくりと頷く。
雨音は絶え間なく続いている。 しばらくはペンも進んだ。が、なぜか後ろが気になりはじめた。 エドワードが寝返りを打つかすかな衣擦れが何度も聞こえる。 眠れないのだろうか。 ロイはそっとベッドに近づいた。 うとうとはしているようだがまだ眠りには落ちていない。 金の双眸を縁取る伏せられた睫毛に、小さな水滴があるのに気付いた。 突然、愛おしさがこみ上げた。 「こんな雨の夜は、仕事がはかどらないのも、仕方あるまい」
それから唇に。 そしてロイは耳元にささやいた。 「エドワード」 返事はなかった。が、彼の肩が小さくぴくりと動いた。 胸を開き、小さなふたつの突起にそっと手を置き、くちづけた。 先ほどまで伏せられていた目がこちらを見ている。 機械鎧の右腕が、縋るものを探すかのように宙を彷徨う。 ロイはその手を握った。冷たいはずのそれは微かに温かい。 そして指でたどり、何度も何度もくちづけた。 微かに、鉄の味がした。
雨音は絶え間なく続いている。 ときおり羞恥を含んだ甘い声がひそやかに響く。 遮蔽された空間の中で息づく音、声。 ロイは錯覚をおぼえる。 水中でゆらゆらとたゆたう原始の生物になったかのようなそれを。
肩に感じた寒さにふと目を覚ます。 雨音は絶え間なく続いている。 横を見ると少年はまだ幼げな寝顔を見せて静かに眠っていた。 まだ、もう少し。 まだ、もう少し。 このままで休みなさい。 そしてロイも再び眠りに落ちた。
雨音は止んでいた。 カーテンの向こうに光を感じる。 少年はすでに服を着ていた。 「もう行くのか」 「だって、雨やんだじゃないか。オレは雨宿りに来たんだよ」 いつもの口調で、少年はにっと笑った。
それを勢い良く飛び越しながら帰っていく少年を、窓辺から見つめる。 ロイは独り呟いた。 「雨の夜も悪くない。」
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