27   寝 顔       












その部屋の天井には、余計な装飾のない照明器具が埋め込んであり、控えめに落とした明かりが男の姿をぼんやりと映し出していた。明かりの下で、何時に無く重そうな黒い双眸を瞬かせて男は煙草を燻らしている。煙がゆうらりとゆれながら、漂うように天井へ上がっていき、 細い筋が幾重にも重なって生き物のようにうねるさまは、まるで蛇が蠢くようだと男は思う。それを目で追いながら、何匹目かの蛇を吐き出したところで、部屋の扉ががちゃりと開いた。
「…着替えたの。相変わらず早いわね…」
女が髪を拭きながらバスルームから出て来た。一糸纏わぬ姿で、見事な肢体を男の目に晒すように歩いてくると、ベッドの脇に腰掛けた。男は無言で僅かに眼だけを女のほうに動かしただけで、変わらず無表情に蛇を吐き続けている。
「…あの最中以外ってあなたの裸を見たことないわ。シャワーだって絶対一緒に使わないし…軍人はみんなそうなのかしら?」
ふふ、と笑いながらも、淋しそうに細い綺麗な指先が男の首筋を辿る。男の黒い瞳が濡れるように揺らいで、女は心臓をぎゅうっと握られたような錯覚にはまった。と、男の手が、不意に引き寄せるようにその指先を掴む。
「君の知っている軍人は皆そうだったのか?」
「ま、ロイ、妬いているの?…いえ、違うわね…」
そこまで口に出すと、女は残りの言葉を呑み込んだ。肩を抱くと先ほどの男の愛撫の感触が蘇る。
―― だって私を夢中で抱いていても、心の一隅はいつも醒めている…そう、そこには別のものが棲んでいる…
この男と同衾する間柄になって随分経つが、未だに恋人とは呼び難いものを女は感じていた。お互い肌を合わせるようになった大人の男女。そこには当然、狎れのような情がある筈なのに。彼は傍にいながら、実体が何処にもないのだ。この紫煙と同じだわ…
女の胸中を知ってか知らいでか、男は指先に口付けをひとつ落とすと、煙草をもみ消しベッドから降りた。
「…帰るの」
「明日は早いのでね。すまないが。…おやすみ」





いつも以上に小奇麗に整えた軍服と外套を身に付け、書類ケースを携えた一人の男が、セントラル中央駅のメインホームに降り立った。暖房の効いた車内から足を踏み出した途端、早朝の刺すような冷気に男はぶるりと身を震わせる。
(………)
襟元を立てて、皮の手袋を嵌めると、男はケースを小脇に抱えなおした。この中にはこの国の最高機関へ提出する報告書が仕舞ってある。男は中央改札を抜けると、白い息を吐きながら巨大な建物へと向かって行った。


「マスタング司令?…お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
重厚な扉を開いて通された先の部屋、それは中央の幹部たちが使う会議室。男は今日、そこに呼ばれていた。外套を預け、椅子を勧められて、案内係の兵士が退出すると、ひとりになった男は部屋を見回した。
(久しぶりだ…)
機能を優先させがちな軍中央本部にあって、この部屋は珍しく年代ものの造りをそのままにしていた。扉を始め、巨大な会議卓、椅子、腰壁に至るまで、飴色に変わった重厚な木材でしつらえてある。高い天井には同じく木製のシーリングが設置され、曲線で装飾を施した照明がこうこうと灯いている。男は、今、自分が腰掛けている椅子に気が付いた。一番初めはここに一人で座った。その数年後は二人で並んで座った。そして今は、また一人で座っている。時代も、ひとも、状況も、立場も、僅かな間に変化する。そうだ、変わらないものなど何一つ在りはしない。そしてまた、変わるからこそ私は歩いていけるのだ…
いや、重要なのはこれからここで始まる。無能な幹部と報告書について質疑応答を重ねなければならぬ。
男はケースを引き寄せると中身を取り出した。そして内容を確認するように読む。イーストシティで副官と何度も打ち合わせをして作成した報告書。形式の不備も、中身の記述も、何一つ抜かりは無い筈だ。
やがて扉が開いた。
「すまない、随分待たせたかね、マスタング司令」
「いや、彼は待ち時間さえ、無駄なく有意義に使える優秀さですから」
「そうそう、あの若さで司令官会議報告書を提出出来る位ですからね」
明らかな揶揄を口々に飛ばしながら数人の幹部が入ってきた。男は立ち上がると、正式の敬礼を以って幹部を迎える…まったく、暇な連中だ。貴重な時間も無駄にする!どうだ、あの締まりの無い体は。軍人の癖に座ってばかりいるのだろうよ。兵士と一緒に錬兵場でも走ったらどうなんだ…!
完璧な礼節を実践しながらも、心の中では毒を吐いていた。幹部たちがのろのろとようやく着席すると、最初に口を開いた幹部が男にも着席を促す。この中で唯一敬意を払えるのは彼くらいだろう。
「今期の報告と東方司令官会議の決議です。どうぞご査収を。不明点疑問点があれば何なりとご質問下さい」
先ほどの書類を幹部たちに渡すと男は暫く待った。

「―― ング司令」
幹部の声にはっと我に帰る。いかん、大事な時に。男は表情を取り繕うと不明点でもありましたかと訊ねる。
「マスタング司令、君は対過激派に随分と功績があったようだが、それは他の司令官の協力があってこそじゃないのかね?その辺りが詳しく書かれていないのだが…」
「これでは君一人が…いやはや、君は若い。もう少し年長者を立てたまえよ」
事実は明らかなのにこの連中ときたら…!彼らの反応は当然予想していたが、それでも男は苛立ちに思わず眉根を寄せる。
「…いや、彼の功は他の司令からも聞いています。これはこれでよいでしょう。事実ですから」
最初の幹部が穏やかだがきっぱりと話を割る。それに釣られて他の幹部も慌てて頷いた。 全くポリシーの無い連中だ。下らんことを。おもねるしか能が無い。いや、私もまだまだだ…。こんな連中の挑発に乗りそうになったではないか。危ない危ない。
男は緊張していた。ぱら、と報告書を捲る音以外は、暫く沈黙が流れる。幹部の一人が口を開いた。
「―― では、現在はこれ以外に報告すべき点は特に無しということかね…決議の内容を汲んで次期予算の…暫定的な…ああ、それから後で…」
予想通りの幹部たちの確認にイエスとちいさく頷くと、ほう、と息を付きながら男は普段の表情に戻っていった。






―― ねえ、ロイ、ロイってばぁ。ねぇ、ロイ…
細い小さな手が男を揺さぶっている。伸びた前髪が閉じられた瞼に掛かって、男の顔はいっそう歳若く見えた。小さな手は男の前髪をそっと持ち上げて覗き見る。白い額と滑らかな肌に、普段慣れ親しんでいる顔とはまた違う、と感じた。そして男の傍を離れると、ぱたぱたと足音を立てて慣れ親しんだ方の顔へと駆け寄った。
「ねぇ、パパぁ、ロイねぇ、おきないの」
残念そうに言いながら、幼女は父親のひざに乗ると手を伸ばして顔を撫でた。髭の跡がざりざりと手に触れる。ロイの顔はパパと違っておにんぎょうみたい、だってやわらかいんだもん、しろくてさわるときもちいいんだもん…娘命の父親が聞いたら号泣するに違いない。それとも黒髪の親友を本気で殺してしまうかも知れない。
そうとは知らずに、愛娘が手を触れるのに気を良くした彼は、立ち上がると娘に促した。さ、2階のママのところに行っておいで、もうお寝みの時間だろ?ロイはパパがみてくるよ。
客間の長椅子で寝入ってしまった黒髪の親友にヒューズはそっと近寄った。貸してやった自分の白いシャツとズボンはやはり大きかったのか、軍人の割には小柄なロイの体を包んでなおゆったりと泳がしている。余程疲れているのかすうすうと寝息まで聞こえる。ヒューズは黙って向かいのソファに体を沈めるとロイを眺めていた。
中央に赴く予定があるから会えないか、と一昨日突然電話があった。珍しいものだ、この忙しい男が自分から会おうと言ってきた。そして仕事を早めに切り上げて、通りのカフェでひととおりお互いの近況などを話した後、無理矢理家に連れて来た。外ではそうそう込み入った話もゆっくりと出来ないし、たまには家庭の環境もコイツには必要だ…そして親友は食事が終わると寝てしまった…ヒューズは眼鏡の奥で苦笑をしていた。
「…………ッ…!」
小さな叫びでロイがいきなり体を起こした。…おい、ロイ…お前、大丈夫か? ああ、そうか。 ヒューズの声に、男はここが彼の家の客間だったと思い出した。自分でもよく覚えていないが夢を見ていたらしい。
「すまない、俺は、何か言っていたか…」
「いや、よく分らんかった。またお偉方に突付かれたのか?かなり疲れてそうだぞ。俺のトコにはその手のネタは来てなかったが…そうだ、目が覚めたなら一杯やるか?」
ほらよ、とヒューズはにっと笑うとウイスキーのグラスを男に渡してやった。寝起きの渇いた喉に冷たい酒が心地良い。程よい苦味とアルコールの刺激が却って気持ちを鎮静させていく。二人はぽつぽつと話し始めた。
…すると、何か、お前の手柄が増えたので面白くないというわけか。今回は司令官会議報告も作成したし。最年少の作成者だろう。だから余計に苛めたいのか…ふん、相変わらず下らん。
…作成は老人連中から押し付けられたのさ…幹部の中にひとり庇ってくださった方がいたが。あの御仁はまともそうだ…
外では出来ない幹部の悪口を散々交えると、今度は、ヒューズは躊躇いがちに男に尋ねた。
「ロイ、お前、その、何か無茶をしてないか?俺はそんな気がするぞ」
グラスの氷がからんと音を立てた。意外な問いかけに男は直には返答できない。眼鏡の男は続ける。
「このところお前に関する噂が流れてこないんでな。こういっちゃ何だが、常に何かやらかしているロイ=マスタングにしちゃ大人しすぎる気がしてな…逆説的推測だがよ。…おっと、氷が溶けてきたな」
喋りながら立ち上がるとキッチンに向かい、追加の氷とチーズを抱えて戻ってくる。
「それに今日、厚生部からの書類を整理させていたら妙なモンが紛れてて。…とある士官の長期療養届けとその療養先所在地。…東部なんだが?」
ヒューズが黒い瞳を覗き込むように問うが、直には答えず、男はチーズの欠片を口に放り込むと、ウイスキーでそれを流し込んだ。唇を掌で拭うと、普段の口調で返す。
「おいおい、軍なんだから病人怪我人は数え切れないほどいるだろう。俺はそこまでいちいち知らん…」
「…そうか、ならいいが。中央にお前は敵が多い。付け込まれないように気をつけろ…」
俺も出来るだけの情報は流してやるからよ。それはそうと、と、話題を変えるように眼鏡の親友は薄く笑う。
「お前、相変わらずなのか?誰か心許せる相手はいないのか?直属の部下は勿論信頼できる相手だろうが、それ以外に揺ぎ無い味方はお前には必要だぞ。そうだ、あの子は、あの少年は駄目なのか?…今日だって連れて来ても良かったのに。いや、俺はむしろアイツらに会いたいぜ」
「あれはまだほんの子どもではないか。お前もそう言った癖に。ヒューズ、彼の話は止めろ」
「…そうは言っても俺の家族が無事なのは、お前と彼のお蔭だろう?…お前、何にも言わなかったが、乗客名簿を知っていたな?」
ヒューズの言葉に男は顔を上げた。眼鏡の親友が真剣な顔をして頷いている。
「あれは東部一地区の活動とされていて、最近それに関する資料を読む機会があってよ…その中に彼の報告が抜粋してあった。俺にはあの子が何をしたのか直に分った。情報部が今頃、といわれると返す言葉が無いのだが…俺は家族は自分で守りきると思っていたのだが、こういうこともあるんだな。大人が知らずにちいさな少年に守られてるんだからよ。かれはどうしている?元気か?」
ヒューズの話に、男は自分でも思わず舌打ちを落とした。幸い、親友には聞こえなかったようだが。俺は、最近の彼は、あの少年のことは…知らない。情報部だけあっておおらかな見かけよりは遥かに勘の良いヒューズだ。気をつけなければ…。男は慎重に言葉を選ぶ。
「彼は乗客を知っていた訳ではない。偶然だ。お前の家族のことは今も知らない。それに、彼は旅に出ている筈だ、たぶん元気だ」
「筈?たぶん?おいおい、ロイ、お前、あの子たちの後見人だろ?親代わりみたいなもんだろ?」
呆れたようなヒューズの口調に男は顔を顰める。
「親?俺は単なる軍務上の形式上の後見人だぞ?日々の業務で忙しい身だ。それでも子どもだと気にはかけているぞ。それにさっきお前は彼は俺の味方足りえると言ったが?子どもに?…俺に全ての理想を求めるなよ」
不機嫌を隠し切れない黒髪の親友に、ヒューズはマズったかと思った。この親友はこの上なく有能だが、同時に妙に不器用なところがあるのだ。それがあの少年のことだったのか。まあ、コイツは独身だから子どもの扱いが分らないのは無理ないが…。ヒューズはそう勝手に理由をつけて納得する。
「…さて、そろそろ失礼するよ。グレイシアの料理は本当に美味いな」
あれから話を変えて、(ヒューズは少年の話にならないように気をつけながら)国家試験の話題がひとしきり終った所で、男が腰を上げた。この家は何時来ても居心地が良いと思う。だから長居は出来ないのだ。男はコートと荷物と軍服を手に取ると、客間の衝立の向こうで着替え始めた。
「おい、ロイ、泊まっていくのだろう?あいつだってそのつもりでいるから遠慮するなよ」
「…洗濯物を増やして申し訳ないが、お蔭で軍服が皺にならずに済んだよ。明日、また少し顔を出さねばならないから。時間が半端でね。お前は通常通りの出勤だろう?」
だから朝寝坊したいからホテルに行くよ、またゆっくりお邪魔させてくれ、と黒髪の男は既にコートを着込んでいる。コイツは言い出したら聞かないからな…男の嘆息がふと落ちた。
「…おい、だったら明日また俺のところに顔を出せよ?」
「分った、そうする」
彼と、彼の家族に宜しく、と言い置き、男は親友宅を後にした。
車の拾えるところまで、と深夜のセントラルを歩いていく。緩やかな坂道からふと見上げる凍てつく夜の空には、あまたの星々が存在を静かに主張している。男はそれを美しいと思う。が、それだけだ。
(―― 私の存在はこの地上にあるのだから)










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